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裁判所を騙した「新津田沼駅急カーブ」!
誤解を前提にJR西日本擁護記事:RJ誌永瀬教授

 福知山線尼崎事故の山崎社長に対する刑事裁判が無罪として終結しましたが、永瀬和彦元金沢工業大学教授が鉄道ジャーナル誌2012年4月号5月号(p126〜132)で、その判決文を直接読んでの論評を試みています。
 検察側の立証方針の重大な失敗や、それを支える供述調書が検事の作文だったことに加え、郵政不正捏造村木事件が暴露されたこともあって、検察主張事実の信憑性が全くなくなって、被告有利に大きく振れた状態での予測された無罪判決でありますが、事実評価はまだ様々の見解があるのは当然として、事実そのものが誤認されていては妥当な論議になりませんので、裁判所が採用した弁護側証言:高速直線の先に急カーブを挿入した線形変更事例の不当について述べます。判決などの引用なのか、御自身の意見なのか混同しかねない個所もあって注意深く読み進みましたが、国鉄時代に東中野追突事故(88/12/05)の調査も担当したという鉄道専門家である永瀬氏は、新津田沼駅先の現場を直接見ていながら、証言の誤り、判決の勘違いを是正するのではなく、そのまま肯定して、JR西日本が事前に転覆危険性を検討しなかったことを擁護しています。

直線を廃止し急曲線を延長して新京成現新津田沼駅 <c1>
新津田沼駅周辺800.280
  新京成「新津田沼駅」と線路は移動しており上記地図の現駅は1968年(s.43年)に開業の4代目。
京成津田沼駅進入Sカーブ144R
総武線ガード西南西144m半径Sカーブ
(新津田沼駅前後の標準半径)
 初代と3代目「新津田沼駅」は国鉄津田沼駅との連絡駅として現在より150mほど北北西に行き止まり駅として作られ、初代が1947年(s22年)、3代目が1953年(s28年)に開業、京成津田沼方面連絡は1953年に1駅手前の前原を出たカーブから、京成津田沼駅のSカーブに直線で繋ぎ、この直線上に2代目「新津田沼駅」を作ったのだが、国鉄津田沼駅との連絡が徒歩10分弱と遠すぎて不便になって苦情殺到だったので1961年(s36.)初代駅を3代目「新津田沼駅」として復活させて2代目を「藤崎台駅」としたものだ。初代駅廃止はあまりに乱暴な京成電鉄誘導であり、大規模団地開発=国電乗換増と共に8年近くで撤回となった。
 その新津田沼駅周辺の都市再開発として総武線北東側の鉄道2連隊資材倉庫跡に設置されていた県立千葉工業高校と、鉄道技術研究所津田沼分室、大栄車両工場、自衛隊官舎を移転させて、1968年(s43年)に工業高校と京成電鉄修理工場の一部だった現「新津田沼駅」を通って京成津田沼のSカーブ半径144mに繋ぐ配線に改めたことで、前原駅からの分岐と直線と藤崎台駅を廃して現行の配線となった。
 すなわち、京成津田沼駅からの急なSカーブ半径144mを延長して現新津田沼駅に繋ぎ、直線部と藤崎台駅を廃したのであり、直線の先に急カーブを挿入したのではなかった。(マルイ先の津田沼公園には鉄道連隊の蒸気機関車がモニュメントとして置かれ、千葉工業高校の来歴を書いた記念碑が建っている)
     (地図は昭文社1990年9月刊都市地図千葉県習志野市より抜粋。画面左が北方向)
    →新京成新津田沼駅(初代=3代目、現行4代目)
    →藤崎台駅=2代目新津田沼
 裁判で論議されなかった重要問題は、山崎鉄道本部長のような安全基準を作るべきセクションが、必要な検討を怠って事故が発生した場合の過失責任は、どこまで追及すべきかで、個々の現場を特定して知っていたかどうかには関わりのないことです。本社採用理工系キャリア組エリ−トとしてその程度の初歩的解析は十分近似計算可能で、たとえ転覆限界についての國枝の実験式を知らなくても様々想定近似はできるので「できない」とは言わせません。この点でも國枝の式唯一論という判決の解釈は誤りです。

 ところが検察は山崎氏の技術力を全く無視し「部下から聴いて危険性を認識した」というストーリーを捏造して押し付け調書を作り、自ら墓穴を準備したうえ、裁判の「準備手続」(永瀬氏記事に言う「公判前整理手続」p126右L9)で、立証内容をそのストーリーに限定してしまったことで、山崎氏自身がその固有専門技術として気付いていた、あるいは当然気付くべきであったことを、斯界の重鎮などを鑑定証人に立てて立証することをほとんど不可能にして墓穴を掘ったのでした。

 以前は準備手続きで立証をきつく縛られることは少なかったのですが、裁判員制度導入に伴う公判期間の短縮方針で、「準備手続」として事実上の事前審理がされて、立証では開幕前に決着が着いている様になったことで、公開の法廷が開かれる期間こそ短縮されましたが、実質の裁判期間はあまり変わらず、法廷での立証方針変更が極めて難しくなりました。それに加えての郵政村木冤罪事件ですから無理筋自白調書の検察の言い分が通るハズもありませんでした。山崎前社長は無罪確定の恩人、村木家に一升瓶と有名メーカー製鉄道模型セットでも持って挨拶して来なければいけませんです(w。持参する鉄道模型は無論あの事故調委員工作にお近づきの印で贈った超高級品です。注意義務違反として罰金ぐらいは払ってくれないと、JR西日本には安心して乗れないではないですか。
千葉駅総武本線側構内配線
千葉駅総武本線側構内配線 <c2>
旧千葉駅
千葉駅移転前の千葉駅・中心街と扇形機関庫 <c3>

国鉄千葉駅の改良 <s1>

 千葉駅は戦災復興都市計画により1963年に、現東千葉駅付近から、西に約700mの現在の位置に移転していますが、総武線が左に90度向きを変える基本構造は変わらず、それまで総武線は左に400Rで扇形機関庫をかすめて約90度向きを変えて旧駅構内に進入していたのが、現在は総武・成田線ホーム途中から左へ半径500mの曲線となり、向きを変え終えた東千葉駅手前付近に#7〜#10各ホームへの分岐を置いています。房総東西線はスイッチバックが廃されて#0番線〜#6番線から右カーブで入線する様になり、さらに複々線化時には房総方面下り線と総武成田方面上り線を立体交差として西千葉駅付近で高速で分岐させており、これらの移転改造時に「直線から急曲線に変えた個所」はありません。現在総武線ホームの半径500RカーブをN'EXが通過しています。(See→構内配線図

新津田沼駅の改良 <s2>


↑旧藤崎台駅線路跡

新津田沼駅付近に多用の144R曲線
 新京成電鉄は、帝国陸軍鉄道第2連隊の演習線だった路線を戦後に払い下げを受けて開業して以来、国鉄JR津田沼駅との連絡駅である新津田沼駅の接続の利便と、京成津田沼駅乗り入れが絡み、移転を繰り返して現在4代目の駅ですが、この4代目新津田沼駅開業に際して行った線形変更は、直線と直線上に設置の藤崎台駅(=2代目新津田沼駅)を廃して急曲線半径144mのSカーブを延長して4代目新津田沼駅に繋いだもので、ここも「直線から急曲線に変えた個所」はありません。(地図旧線旧藤崎台駅跡参照↑)

試算ぐらいは示して欲しい  <s3>

 他にも急カーブで脱線していない例を挙げていますが、問題は、手前の直線を日常的に転覆懸念速度以上で走っているかどうかで例を挙げるべきで、そうではない千葉駅進入や新津田沼駅出発を転覆力の試算さえ示さずに上げてもJR西日本の怠慢擁護に大学教授名を使った素人騙しにしかなりません。これぞまさに吉田茂首相の叫んだ「曲学阿世の徒」!しかも、その時は非難を浴びせられた南原繁東大総長らの主張する「全面講和」が圧倒的国民世論で、アメリカに従属する「単独講和」支持は極少数であり、占領下に御用組合として結成された総評が、この問題をめぐって「にわとりからアヒルへの転換」といわれた方針転換をして労働者国民の立場を取り戻した戦後史上の重大転換点でした。事実に反しても無条件でJRのミスを糊塗する実にみみっちい話とは違います。

 西武新宿線高田馬場駅への上り進入の急カーブは、実は長らく東京近郊に住みながらあまり通った記憶が無く、少年時代の沼袋の中野電波学校での受験や、中井のカミさんの職場に顔を出して通った程度しか記憶がないのですが、手前側の直線の運行速度がかなりスローで、転覆限界に届かないのではないでしょうか?あ、石川島播磨争議団の大集会に参加して田無から急行に乗ったのは思い出しましたが、通ったのは深夜で外を見ていませんでした。日比谷線中目黒駅事故現場は半径160.1m本則40km/h制限に対して、高架上でのリスクの大きい場所で半径158m速度制限35km/hは標準的値。そもそも首都のターミナルへの進入速度が転覆限界を超える様な場所があるのか?という問題で、懸念箇所はかって事故を起こしている新井薬師とか、非常に限られている可能性が高く、永瀬氏が具体的根拠を示さないプロパガンダ型記事を書いている以上、そこは鉄ヲタとしても要調査でしょう。

 写真4.で高田馬場駅上りを半径158mとしていますから、尼崎事故現場の半径304m、転覆限界速度105km/hをもとに、遠心力の比例計算(速度^2/半径)で転覆限界速度を推算しますと、105×sqrt(158/304)=75.7kmですから、あの上り進入では通常もっと低速で走っていて転覆速度には達していないことが予測されます。尼崎事故現場は直前の直線の許容速度120km/hでの進入を想定する必要があり、それは転覆限界速度より15km/hも高く、転覆限界に直結する遠心力は速度2乗比例、半径反比例ですから危険度がまるきり違います。「当初、遅れなければ90km/h台の速度で間に合った」というのは、遅れれば120km/h運転を「許容」していたのですから設置を免れる正当な理由にはなりません。(補足:安全基準算出に、許容最大値を元に算出するのではなく、平均的な値で算出する誤りは、ATS-Sxの地上子設置基準と共通で宿毛事故(05/03/02)の解析で大いに違和感を感じたのですが、転倒限界の絡むシビアな安全基準の根拠数値にまで平均的値を採用するというのは、氏の意図的主張と言うよりも国鉄基準を無検討で適用したのかも知れません。いずれにせよ適用間違いです)

 参宮線宮川駅下り場内付近の写真3.で「『速度差が40km/h近い』曲線。当時は未だ曲線防護を行っていない」として旧曲線での無防備の例に挙げていますが、制限値を5km/h単位に切り捨てる国鉄型制定法では、実際は35km/h以下の減速量という意味になりますから、当時のJR東海の曲線過速度ATS設置基準40km/h以上には満たず、引き合いに出されるべき例ではありません。

 転覆限界試算というのは、一般の特性値試算が中央の平均値を求め、現実との差で正確さを評価するのとは異なり、絶対に起こってはならない=実際の検証不能の転覆限界を予想して、加わる悪条件に対する余裕度をどれだけ取るかという「連立不等式」の問題なので、0.9×國枝の式の予測値と微妙な差があっても、それは見込む余裕の差で、設置条件としては双方に合理性があるものです。そればかりか山崎氏が主導してJR西日本が行ったATS-P路線での曲線半径450m以下など111個所への過速度ATS設置も、余裕度を大きくして概略算の誤差による転覆限界超過を避ける安全基準の一種です。

 鉄道の曲線速度制限規定は、転覆限界速度の厳密な算出は行わずに、それよりかなり厳しい「乗り心地限界速度」で規定していることで安全限界に代えていて、それを過速度ATS設置基準に選んだので、国交省の行政指導「0.9×国枝の式」の箇所数より、1桁多くなりました。この点、判決に勘違いが有るようで、それを最大限に使った印象操作で、JR西日本の怠慢を擁護しています。
 転覆限界の精密計算が出来れば、その分安全余裕を小さく設定できて安全装置を設置しなくて良い場所が増えて経済性が増すということです。過速度進入停止をマスコミから叩かれた神戸電鉄が国交省行政指導に沿った曲線過速度ATS設置で国鉄JR各社より設置数がかなり少ないことは日記#0189日記#0191などで指摘の通りです。

暫時まるきり余談 [ 鉄道2連隊跡、演習線跡、千葉工業高校跡 ] <s4>

 この節は全くの余談ですが、総武線が津田沼を出た直後の両側の丘の上は、旧鉄道第2連隊の跡地で、南西側(海側)は同鉄道連隊の本部棟のあった場所で煉瓦の正門を残して現在千葉工業大学キャンパスとなっており、商業施設の建ち並ぶ北東側(山側)は、千葉市検見川で軍需工場と誤認されて1945/07/07深夜に米軍の集中爆撃を受けて校舎の3/4を焼失した県立千葉工業学校が鉄道2連隊資材廠(倉庫)跡に移転したものでした。事務棟(本館)と教室棟(1〜2号館20教室)、理科室棟、通信棟は新築しましたが、各学年7クラスで1クラスが教室棟に収まりきらないで、資材廠跡の実習棟に教室が置かれて、その床下には鉄道連隊のレールが蘇我移転まで残っていたと言います。(地図参照。「理科室棟」が不明。後日建設か?

新津田沼駅#3&千葉工業高校#3津田沼校舎s36
by「新京成電鉄」p59白土貞夫編著彩流社'12/3/5刊補足
千葉工業高校@鉄道連隊補給廠
右上直線上に藤崎台駅、左端に大栄車両2工場、そこから旧新津田沼駅の線路が右カーブで登る。[千葉工業高校サイトより]
消防倉庫敷地内の塔。旧鉄道1連隊敷地西北端、連隊演習線出発地付近
地図の「千葉陸軍兵器支廠(右書)」敷地(中央上端)右上角付近
望楼跡にしては中途半端で、機関車への給水塔下部に酷似
 新制千葉工業高校の回り全部は線路が取り巻き、北側に京成電鉄第2整備工場、東側を京成津田沼と繋ぐ新京成線、総武線との間に鉄道技研津田沼分室、大栄車両工場、陸上自衛隊独身宿舎が有って、総武線踏切を挟んで千葉工大正門(=鉄道2連隊正門)と千葉工業高校正門が対峙、工高の正門の道を入ると大栄車両工場が道の両脇にあって、その構内踏切を渡り、構内踏切から左手奥には3代目新津田沼駅が見えていました。
 なお、旧大栄車両側からは千葉に向けた鉄道連隊演習線跡が総武線快速下り線で、京成本線ガード手前から左に分かれて今も残り(枕木は付近に移り住んだ住民が掘り出して風呂の燃料にしたのだとかw)、京成本線に沿って並木が続き大久保駅北から八千代を抜け、花見川を渡って鉄道1連隊の穴川先千葉公園まで演習線の痕跡か、道路が通っていてGoogle Earthで辿れます。千葉市稲毛区穴川十字路付近にある消防倉庫敷地内の高架の「消防水槽」は、どう見ても機関車の給水塔に見えるのですが、真相はどうなんでしょうか?ストリートビューで覗いて見て下さい。花見川横断(現花見川大橋=1996年開通)の急勾配を避けた千葉郡柏井回りの別線は花見川右岸は大規模団地化(花見川団地)で痕跡は見つからず(現地の雰囲気としては団地内平坦尾根筋と花見川スイミング西裏外を回る謎の曲線のSカーブの可能性)、左岸は広尾十字路先とこてはし台先・横戸台の戸建て団地を囲む道路の曲線が柏井高校北ゴルフ場(鷹之台カンツリー倶楽部)に抜ける別線演習線の痕跡らしく見えますが、そうすると三角町先の柏井浄水場を通り抜けていたことになります。(柏井地区に印旛沼放水路の堀割が通って花見川となったのは戦後です)。
      See→鉄道第二連隊千葉演習線の痕跡
 東海道新幹線用に開発のレール締結具は校庭南西側の松林の先の鉄道技研津田沼分室で昼夜連続の加速寿命試験をしていました。夜は何人かが線路脇の自衛隊独身宿舎から松林を抜けて同工業高校定時制に通学。
 京成利用の遅刻者は正門を廻ると10分ばかり遠いので崖をよじ登って新京成線の犬走りから線路を直接渡り実習棟(=鉄道連隊資材倉庫)を廻ってこっそり登校。放課後の応援練習で上級生達に拘束されるときは、鉄道連隊講堂裏から京成電鉄第2整備工場の万年塀をよじ登って東の崖下から脱出し京成ルートで房総各地へ帰宅が常。応援練習強要の2週間ばかりは上級生の逃亡実力取締部隊と鬼ごっこで、そういう逃亡犯に限って最上級生になると今度は実力取締部隊になったそうです。

 千葉県でも県立農業高校に次いで2番目に広い学校敷地1周全部を線路と鉄道工場・研究所に囲まれた工業高校だなんて、鉄ヲタ諸氏狂喜乱舞の立地だったのですが、1967年4月(現新津田沼駅開業1年余前)に外房線蘇我の田舎の少年院の隣に越すことで土地代の差額で建物と実習設備を更新したのだとか。どちらが少年院入院者か判らん!との声で、少年院の方を引っ越しさせたという伝説があります(w。大昔は「千葉の貧乏人の東大」と揶揄され、南房館山や銚子外れ、常磐線我孫子など全県から津田沼まで片道最大3時間も掛かって登校していた名門校でしたが、近年優秀処は大学進学可能になってごくごく普通の工業高校に。): RETURN 本論!

ナマ資料を得られる専門家が、現地を直接調査してなぜ「誤解」のママ? <s5>

 千葉駅の線路付け替えの件も、新京成線新津田沼駅の線路付け替えの件も、福知山線尼崎事故の評価に絡んで、「高速走行の直線からいきなり転覆懸念のある急カーブに付け替えた例は他社にあるのか」という質問に対する答としては、全く的外れで、かえって「そんな例は無かった」ことを裏付ける様な例なのに、永瀬氏の記事では「新京成線新津田沼駅付近で実施された(写真6)例がある旨を答えたことを受けての言及と見られる。/なお、筆者の知る限り、同じ様な工事が千葉駅の改良及び西武鉄道小平・小川短絡線(現拝島線)新設の際にも行われている」(鉄道ジャーナル2012/05号p131左段下〜L16)、「写真6.新京成線新津田沼駅京成津田沼方に線形変更で挿入された半径144mの曲線、S43.5までは左手にあった藤崎台駅(廃止)から京成津田沼に直進していた。H22.5.14(筆者)撮影」(p130右上)としていて、西武拝島線の例は現場が何処かを特定できませんが、新津田沼駅改良と千葉駅改良は我が地元なので実情を判っています。冒頭の地図内に「撮影方向」と記したのは永瀬氏撮影の「写真6.」の視角です。専門家であり、資料を充分に得られ、裁判当事者以外はまず見ることのできない大型裁判の判決文まで入手している永瀬和彦元金沢工業大学教授が、わざわざ現場を見に行きながらなぜ実際とは違う記事を書いてまで、JR西日本の重大エラーを庇うのでしょうか?
(注目される裁判の判決は法律の専門家向けに「判例時報」誌などに掲載されますが、数100頁〜1000頁超にもなると要旨になってしまうこともあり、図書館にはまず無く、かなり大きな法律事務所(弁護士事務所)でもないと見ることができません。ネットも法律の専門家向けに有償で、普通の人にはちょっと手が出ないのです)

無実と無罪は大違い <s6>

 また、無実と無罪は大きく違います。全く無関係が無実。村木事件です。関係していても処罰すべき違法性が無いと判断されれば無罪で、本件の場合、ご当人は道義的責任は認めるが、刑事処罰には値しないと、評価を争っている訳で、さらに「安全性を検討する部局が無かったことに気付いた」という表明は、マネージメント側に重大な見落としが有ったと言っている訳です。
 山崎氏の主導で曲線速度照査を111個所も設置していたのですから、設置基準をきちんと解析・検討してJR東海のように危険度に気付き手を打っていれば十分に防げた事故で、公共交通機関での過失にどう対処するのかという調査協力免責問題は別にありますが、決して無実ではありません。責任が有るからこそ「免責」するのです。

 JR東海の「40km/h以上減速個所と、それに準ずる個所」という設置基準が國枝の式×0.9と微妙に違うからと言って、安全限界試算であることは否定されないのに、判決は理解を間違えました。「準ずる個所」というのは、公称の速度制限が、カントを加味した「本則+α」で規定された個所で、転覆限界に函する「本則」に引き直してみると40km/h差以上の減速になるということでしょう。
 転覆限界の試算精度を考慮して安全余裕を少し大きく採っていれば、0.9×國枝の式に抵触しない場合があるのは当然で、「JR東海基準の「40km/h以上減速個所」は安全限界ではない」というのは誤解です。風や線路の狂い、走行振動で限界を超えないよう、取り敢えず0.9を乗じて設置基準を定めたわけで、羽越線突風転覆事故のような強風にも対処することを考えたら0.8でも良いのですし、係数低減だけでは対処できない条件もあり得ます。
 似た例を挙げれば、土木建築の強度計算で、解析の水準で計算精度=誤差分が変わるので、万が一の強度不足を怖れて、大きな安全率を掛けますし、「動荷重は2倍!」で計算した上で安全率に余裕を採りますので、すぐ3倍〜5倍の安全率になります。これが計算技術が進んで誤差を小さくできると安全率を小さくしてコストダウンを図りますから、新設計の建物の方が地震など想定外力に対して一様の強さに作られて、昔の設計より弱い部分が生ずることは有り得ます。転覆予防限界をどう採るかの違いであり、國枝の式以外の推算=JR東海の設置基準を否定することは出来ません。

 現場に疎い裁判所が、検察側の重なるエラーへの不信感もあって「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則を厳しく適用し、弁護側国鉄一家の論理トリックに見事に引っ掛かったということでしょう。

 山崎氏は刑事裁判としては無罪が確定した今、危険度を高めた懲罰的日勤教育の精算、教育訓練方針の確立や、全く抜けていたマネージメント側のエラーである、諸規定・図面の一元管理・検索化や、安全基準検討部局の立ち上げ、被害者・遺族対応など、スキルと能力を活かした活動で「道義的責任」を充分に果たして戴きたい。歴代3社長には、このマネージメントエラーの責任はもっと大きく掛かり、処分権の少なかった技術担当役員である山崎氏のみの訴追は大変不公平なものでしたが、責任はあると思います。
   参考記事→日記#188:かなり言い過ぎ?永瀬金沢工大教授の尼崎事故調報告叩き
       →日記#292:予見可能性なしとは!過速度転覆(無罪判決)

2012/03/27 20:30

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