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鉄道第2連隊の痕跡


@ハミングロード:習志野市
2012春

  鉄道連隊とは   <rentai>

 鉄道連隊というのは、他国に攻め込んでその戦線への軍事物資輸送鉄道敷設・撤去、鉄橋の爆破などのための工兵隊で、自国内敷設はその演習線や連絡線であり、鉄道建設・保守支援も実技演習の一環であるから帝国主義政策の申し子である。
 先ずは清の保護国であった朝鮮を舞台に闘われた日清戦争(1894-1895)の経験から1897年に編成されて、

鐵道大隊記念碑碑文

北清事変戦死者碑 北清事変鐵道圖
   北清事変ニ於ケル鐵道圖

(義和団の乱が列強に拠る占領排除の方向となり清朝がそれを支持する姿勢を示したことから、列強8ヶ国が義和団の乱平定の口実で中国に出兵、北清事変と呼ぶ)

[記念碑]
鐵道大隊記念碑 陸軍工兵中佐正六位勲五等功五級井上仁郎撰文
我陸軍之始置鐵道大隊在明治二十九年十月 吉見工兵大佐以中佐選任
隊長日夜拮据勉札丱創三十年六月策營于中野邨十月進大佐三十三年
北清有匪欧米列國各出兵 我帝国亦発艦隊乃第五師團兵七月又
命本隊分一部赴之大佐乃編臨時鐵道隊航海八月抵清國塘沽九月以後
修築豊台黄間鐵路及工成亦平以三十四年四月凱旋而将校有不
者二人大佐及武田中尉是也 中尉九月大營邨偵察線路斃于匪徒襲撃
其月下旬大佐宿痾再発加以痢疾主翌年一月遂不起初大佐拝出柩之
命方在病餘醫危之大佐曰贏驅或不耐興域風土吾亦非不自知然
千載場士之當也吾何敢蹶然赴任其為国家不身可謂偉来臨別告僚
友日此行實為 我隊臨戦作業之始不可不立殊功而還其言尚在耳而其
入則亡我隊之功立而隊長則不還 我将校團之悲莫以加謀建碑
營内勤二氏以下死于此役者姓名以表追悼之意併傳大佐創業之功云
 参謀総長元帥 陸軍大将正二位 大勲位功二級 爵 大山巌
 勅撰議員ミ難祇候正四位三等巌谷修書
   明治三十六年在発卯秋八月建     鱸猛

(裏面)
病死 陸軍工兵大佐正五位勲四等功四級 吉見 精
戦死 陸軍工兵中尉贈従五位      武田 禮作
病死 陸軍工兵軍曹          ○○ ○○
 同  〃  上等兵         ○○○○○
 同  〃  上等兵         ○○ ○○
 同  〃  一等兵         ○○ ○○
 同  〃  一等兵         ○○ ○○
【注記】
圖  図
鐵  鉄
邨  村
亦     また
團  団
傳  伝
而     しかして
宿痾 持病 治らぬ病
痢疾 下痢の伝染病
明治36年=1903年建立

建碑委員 
  鐵道大隊長 陸軍工兵中佐 井上 仁郎
  同大隊附  陸軍工兵小佐 ○○○○○
北清事変従軍現存将校
  陸軍工兵大尉 ○○○○○ 後銭道委員
   同     ○○○○○ 病気後送
   同     ○○ ○○  当時中尉
   同     ○○ ○○  当時中尉
  陸軍工兵中尉 ○○ ○○  
    (注:●色は読み取り困難だった
     文字、○○は一般兵士名)

韓国朴正煕大統領の日本の朝鮮統治觀

 福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本による植民地統治を批判する旨の発言を始めたところ、彼を宥めたうえでこう語っている。

 日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。

  金完燮 日韓「禁断の歴史」p212 小学館 2003年10月 ISBN 4093896518
See→朴正煕Wikipedia
  •  注:韓国大統領朴正煕(パク・チョンヒ)発言では「首席卒業で代表して答辞を読んだ」、記事では「3番卒業」。詳細事実の確定は出来ないが、朴氏が成績優秀卒業者である「恩賜の銀時計」組だったとは各所で言われている。
     (恩賜=天皇から賜った。恩賜井の頭公園、恩賜上野動物園、特攻隊出撃者への恩賜の煙草、等)
 北清事変(1900年「1899〜義和団の乱」"鎮圧"出兵)では早速派遣されたことが「鐵道大隊記念碑」(碑文:右カコミ)に刻まれていて、出兵8ヶ国中最大の戦死者を出して、
 日露戦争(1904-1905)では戦地中国での戦闘支援兵站輸送に大いに活用。
 欧州で闘われた第1次世界大戦(1914-1918)ではドイツ租借地だった青島(チンタオ)出兵程度で終わって鉄道連隊の出番が無く、
 太平洋戦争(1941/12〜1945/08)、第2次世界大戦では「戦場に架ける橋」の泰緬鉄道建設など、
というわけで、千葉県習志野台地は明治来、鉄道の敷設・撤収演習でそこら中が演習の線路跡らしく、戦後はその線路跡に沿って道路として宅地開発が進んでいった場所が多い。鉄道連隊の演習という扱いで総武鉄道(総武線)など多数の鉄道を敷設しているが存在理由は海外兵站輸送と敵鉄道破壊であり平和目的ではない。千葉市花見川団地の千葉市街地方面への通勤交通の要衝「花見川大橋」の両側は演習線撤去後もずっと線路跡のまま放置されていて、左岸側が一時花見川を印旛沼放水路とする土木工事の土砂運搬線の一本として穴川先まで使われ、後に京葉(高速)道路となった部分もあって「軽便道路」「機関車道路」などと呼ばれたが、1996年5月に花見川大橋が竣工で、花見川団地から国道16号穴川十字路、旧千葉市街へ真っ直ぐ抜ける大通りとなって、それまでは存在しなかった新交通路となった。

 しかしながら、軍事技術は両刃の刃で、民生分野にも大変有用だ。例えば鉄道新線建設にあたり全線一括開業ではなく、区間分けして順次設置工事を進めて部分開業で繋いでゆく最適解を求めるなど、東京の地下鉄工事でもあちこち採用されて、順次工事が進められて需要の大きい区間の工事を優先させて完了次第に開業していった。その考え方は、侵攻先の兵站輸送の最大化・最適化解析と全く同じ手法である。
 台湾での鉄道整備や、大陸での南満州鉄道敷設・営業開始、国内扱いでの教育の普及などの政策自体が植民地経営の重要なインフラ作りであった。当時そのままの設備が多く残る台湾国鉄は古い日本国鉄型鉄道設備のファンのメッカとなっている。それは植民地経営を主目的として取り組まれたものとは云え、日本の敗戦で独立後も有用な産業基盤整備ではあったことがやらずボッタクリの西欧列強植民地支配とは微妙に異なる点ではあった。しかしながら創氏改名など極端な同化政策を押しつけて朝鮮文化の破壊にはしり植民地支配の恨みを倍加した。薄く広く収奪した西欧列強とは異なり、植民地経営のための多額のインフラ投資など全く元を取れないままで敗戦に至り手放したようである。

 第2次世界大戦後日韓条約を締結した朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、満州国陸軍士官学校を首席で卒業、選ばれて日本の陸軍士官学校に留学して成績上位の「銀時計組」として卒業しており「・・・・・・卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育はわりと公平だった」(右囲み記事参照)などと述べている。それにより日韓併合の植民地支配が部分的にも正当化される訳ではないが、全部が全部は西欧型のやらずボッタクリ型植民地経営ではなかった様だ。台湾の台北帝大設立など日本本土内未整備の早い時期に設立していることから「植民地ではなかった。平等に国内扱いだった」と強弁する大日本帝国無謬主義の主張すら有るくらいだ。台湾については日本の敗戦後に進駐した国民党部隊の占領軍的政策と極端な腐敗や、2.28台湾住民大虐殺などがあって強い批判を浴びて、日本統治の功罪を客観的にみる世論も生まれたが、韓国はそうはならず、第二次世界大戦後の日本の独立前に一方的な軍事境界線「李承晩(りしょうばん・い・すんまん)ライン」を設けて竹島の武力占拠実効支配を行う侵略返しを行って報復しているが、日本政府は領有の根拠を示して国際世論の正義に訴える適切な反撃をしていない。

 帝国主義政策・武力侵攻政策を、変遷のある「国際法」でみると、当初は、理屈も大義名分もなく一方的な武力侵攻で征服するだけ。各国間の利害対立・意見の対立は武力制圧で力による解決。インカもマヤも跡形もなく攻め滅ぼされたし、阿片輸入を嫌った襲撃に対し清朝に戦争を仕掛けて領土を奪い、阿片貿易の自由を認めさせた大英帝国による「アヘン戦争」という極端に阿漕な例も生まれた。
 アメリカが徳川幕府に対して軍艦「黒船」の大砲を突き付けて開国を迫り関税自主権のない不平等条約を押しつけたのもこの力による決着、帝国主義政策の結果である。このとき阿片戦争の結末が日本への開国要求に使われたそうである。
 日本は英仏など欧米列強の植民地化を危惧して開国、倒幕の内戦拡大を回避して大政奉還・明治維新の近代化路線に踏みだして、鉄道敷設権を外国に渡すことなく国外起債により自前で建設している。

 朝鮮は常に中国の属国であって、元寇で攻め入った軍団のかなりの部分が中国(元)に動員された朝鮮軍であったし、日清戦争・日露戦争の戦場は朝鮮と中国であって、日清戦争の結果、清国が属国朝鮮の「独立」を認め、日本は次第に朝鮮支配を強めて日露戦争後、韓国王朝の摂政を武装兵力で取り囲んで韓日併合条約に記名させ併合した。
 この帝国主義侵略行為は不当ではあるが、当時の国際法違反にはならず、韓国独立後の国際機関への提訴の結論でも「国際法違反」とはされなかったのは、当時の実情を勘案したものであろう。不当な侵略に対抗する国民的合意や韓国王朝に対する韓国の国民的・組織的支持の世論がほとんど無く、個々バラバラの併合反対に留まって、為すがままに吸収合併を許したのではないだろうか。

 日本は列強の侵略防止に明治維新の近代化を進めたわけであるが、自ら帝国主義政策をとって他国への侵略を始めるというのは行き過ぎで、遅れて参入した帝国主義国として世界各国の非難を特に集めることとなった(タイ王朝は対外侵略の帝国主義政策を採らずに存続しているから独立の維持に武力侵略は必然ではない)。国際法と云われるハーグ陸戦条約(1899年)は日清・日露の間の時期に制定されジュネーブ協定は第一次世界大戦の惨渦を経て制定されていったもので、その平和希求の流れに逆らった新興帝国主義国による南京大虐殺などの暴挙が厳しく糾弾されている。インカやマヤ文明の絶滅攻撃、オーストラリア(アボリジニ)やアメリカ先住民(アメリカインディアン)への皆殺し攻撃の非道は全く顧みられていないのは発生時期の問題だろう。

 第二次世界大戦に於ける連合国(後に日本が加盟にあたり「国連」と別訳を充てる)は領土不拡大の原則だったから、その勝利で終結した結果、戦争で領土を取り合わない原則が国際基準になったのだが、ソ連の対日参戦を求めたヤルタ秘密協定での千島占領容認はその原則に反する不当行為で、そこは戦後処理交渉の出発点となるべきもの。どこで交渉を妥結するかは別として、平和裡の交渉により確定された国境線を基準として、サンフランシスコ条約の当該項を破棄して全千島返還要求を掲げる日本共産党の主張はその点で基準に一貫性がある。「歯舞、色丹が北海道の一部である」という主張は筋が通っても、千島放棄条項に同意しながら「南千島は条約で放棄した千島に当たらないから国後、択捉を返せ」では説得力がまるでない。ヤルタ秘密協定の国際法の原則違反から説き起こさないと交渉のバックボーンにはならない。
 この戦争でのナチスの戦犯(戦争犯罪人)を裁いたニュルンベルグ裁判で採用された諸原則は、個々人に対しては遡及適用の非、勝者の一方的な裁判と言った批判はあり、非戦闘員を狙う戦略爆撃、原爆投下(重慶、ハンブルグ、東京、広島など)も「人類に対する罪」ではないかという指摘もあるが、将来に向かっての国際法原則としては意義ある内容が残った。




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【 鉄道連隊 リンク

[[シンガポール華僑大虐殺]]




2012/06/27 22:55

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