[510]

mailto:
旧
新
Diary INDEX
Geo日記
雑談
Geo雑談
サイト内検索
内検索
戻る
LIST
主目次

♪異国の丘♪の思い出    <2>

 作曲家吉田正のデビュー曲、増田幸治作詞の歌謡曲♪異国の丘♪は彼らがシベリヤ抑留中に完成させて現地に口伝えで流行った望郷歌曲で、吉田正より一足先に復員できた中村耕造がNHKのど自慢に応募、1948年8月1日日曜日に出演となり「よみ人しらず『俘虜の歌える』」として無伴奏で歌って「不合格」だったが大評判となり、翌週8月8日日曜日、別人が今度は耳コピのアコーディオン伴奏付きで歌って見事「合格」、NHKには曲への問い合わせが殺到して同年9月には竹山逸郎/中村耕造歌唱でレコードがVictorから発売されている@Wikipedia。

♪異国の丘♪の復員

 私の記憶では、ラジオから♪異国の丘♪の歌が始まると母が急いで便箋を持ち出してその歌詞を書き取っているのを鮮烈に覚えている。どうも事前に放送情報が伝わっていたようで、歌詞の書き取りは2度目の放送8月8日日曜日以降の事だと思う。
 当時は父が副業としてラジオ付き電気蓄音機を作成して時折他家に納入していて家に電蓄が有ったからすぐにレコードを買って聞いていた。

 父の電蓄等の自家製作は、民間放送が出来て2局ステレオ実験放送が始まり三洋電機が部品代総和より安価な5球スーパー・ラジオを発売する前後、TVとFM実験放送まで続き、小学生となっていた私は公開の調整室で父の作った10インチ丸型ブラウン管式TVセットの調整作業を手伝わされていた(手で押さえていただけだったがw)。 秋葉原で米軍放出(横流し?)のブラウン管を入手、オシロスコープを自作しており、父の出勤中はそれらは私のオモチャだった。

 ステレオ実験放送はNHK東京第1‐第2の組と、文化放送-日本放送の2組で行われ、ラジオ東京(東京放送)は独自に1波和差方式ステレオ放送を追求していたが、高品位の現行FM和差式ステレオ放送普及でAMステレオ放送は中止となった。

 叔父のシベリヤ復員

 私の叔父(4男)の復員時期がクリアな理由は、1949年3月に誕生したばかりでまだ自力では這えない我が弟が、復員祝宴会場傍の作業小屋内に揺り篭に寝かされて居たのを、復員してきた4男叔父が姉(=私の母)に「何処のややこ(=あかちゃん)だ?」と尋ねたのを覚えているから、復員時期的には1949年初夏6月頃の筈。

 ♪異国の丘♪のNHKのど自慢放送のあった1948年8月の私の歳は2年8ヵ月余だったことになるが、同時期の直前に父に連れられて東京のデパートの遊園地の乗り物で遊んだ記憶もあり、復員した叔父に父母と私が仮住まいさせて貰っていた家を明け渡して隣町に引っ越して総武線電車が数日止まる豪雪(≒60cm積雪。東京1951/02/15前後の33cmMaxか?@気象庁Web公開データ?理科年表災害歴に記録なし。1950/1/9〜/15「強風」死者120・・・・か?東京の最大積雪記録は1883年46cm)に遭った。

 朝鮮戦争による銅暴騰で窃盗団が跋扈したが、隣町の借家の庭で遊んでいて窃盗団に銅製品の在りかを尋ねられるままに教えて分け前10円を貰って母に見つかり近所の駐在所に補導され窃盗団が検挙されたのが4歳。父に連れられて訳も分からず持ち主の大家に謝りに行ったが、4歳とは年季の入った補導歴である(笑)。

 更に就学前1951年の暮れに新居に引っ越して日本の再独立直前の1952/4に生家のある隣町の小学校に入学している。 未独立だった4月、朝礼で先生方が「君が代」を教えるかどうか揉めていて入学直後には教わらなかった。 朝鮮戦争の1950/06から暫くは復員・引上げが途絶えていて、稀に戦死公報の人が復員することもあって聞いていた「尋ね人」の放送も1955年過ぎ頃には終わって「もう帰らないよね」という母の呟きを覚えている。

これらの相互関係から時機は大きくはズレ様がなく、これ等は当時の記憶の断片に間違いない模様だ。

 その大ヒット振りは凄まじく、通常放送なら番組内で同じ曲で複数の出演はさせないのだが、この1948年♪異国の丘♪と、翌年1949年7月コロンビアからリリースの藤山一郎歌♪長崎の鐘♪は歌唱希望者が多くて出演者の調整が出来なかった様で2〜3人の出演者が同日に競って歌う歌だった。

 母は5人兄弟中の真ん中で、長男以外の男子3人が徴兵・招集されて、1945年8月1日、次男が南方洋上で輸送船が撃沈されて戦死認定(遺骨不存在で骨箱の中は木札のみ)、末の弟が従軍中に病を得て横須賀海軍病院に収容治療したが快復できず終戦後の10月初に戦病死、通信兵となった4男は中国大陸で終戦となりソ連軍の捕虜となってシベリヤ送りされてサマルカンドの炭鉱での強制労働を強いられていて、生きて帰国出来るかどうかも分からない状態だった。
 そこへ♪今日も昨日も♪(後に改題♪異国の丘♪)を聞いて兄弟家族として身に詰まされたのだった。 町内の公民館向かいの丘の中腹に慰霊塔「平和の礎」が建立されて碑面には千葉市花見川区検見川町(旧千葉郡検見川町)内出身戦死者300人近くの氏名が刻まれている。

 4男(母の弟)のシベリヤからの復員は翌年1949年初夏で、舞鶴到着後、一緒に抑留された戦友宅を次々訪ね回って最後は地元漁師が家の漁船で千葉県浦安まで出迎えに行き海から復員帰還で大祝宴を開いた。

本来「A級戦犯」スターリン!

 WW2戦勝国ソヴィエト連邦による国際法違反の捕虜シベリヤ抑留が行われ、帰国の目処も無い中58万人が強制労働に就かされてー40℃とかの極寒の抑留中に約6万人が亡くなる悲劇となった。 捕虜は本来であれば俘虜(=捕虜)の扱いに関するジュネーブ協定により終戦後、速やかに母国に帰還させる義務があったのをスターリンが無視してシベリア開発の強制労働に就かせて多数の犠牲者を出したのだ。
 そもそもを言えば、第二次世界大戦を引き起こしたのはナチス・ドイツ:ヒットラーとソ連スターリンの密約で両国がほぼ同時にポーランド侵攻を始めたことが発端である。
 さらにWW2連合国は戦後処理に当たり『領土不拡大原則』を宣言して『反ファッショ統一戦線』を形成していたが、戦後処理を決めたヤルタ会談での密約ではこの国際公約を無視して、対日戦へのソ連参戦の条件としてソ連による千島列島占領・朝鮮半島北半占領がスターリンから強く要求されてルーズベルトとチャーチルが容認、更には北海道、東北地方占領が狙われた。
 ソ連によるこの千島侵略は占守(しむしゅ)島守備隊(樋口季一郎中将)の8月15日以降の激しい抵抗戦により島民退避に成功、ソ連軍の侵攻は北海道本島には掛らずに済んだが、朝鮮半島が米ソで分割占領されてそれぞれ傀儡政権樹立で朝鮮戦争を経て南北朝鮮の激しい軍事対立が現在まで残る。
 ソ連は千島撤退戦の樋口季一郎中将を戦犯として引き渡す様アメリカに求めたが、満洲国時代に同氏が憲兵隊長としてオトポール事件で2万人といわれるユダヤ人避難民の満洲国通過を図らって亡命を助け救命していたことから米国ユダヤ社会で樋口氏の救命運動が起こりソ連への身柄引き渡しはされなかった。(樋口指揮によるユダヤ避難民の満洲国通過措置を人道上是としてドイツからの抗議に対抗し樋口を庇った上司東条英機(後の日米開戦の首相)はA級戦犯として絞首刑になっているのだが)

 ちなみに戦勝国であるソ連のWW2戦争犠牲者が2700万人!とは、310万人と云われる敗戦国日本の戦争犠牲者数、アジア全域の戦争犠牲者数2000万人より桁違いに多いのだが、その主な原因は2つ、疑り深いスターリンが軍幹部を次々粛清してしまい有効な戦術を採れる軍幹部が極端に不足し緒戦のドイツ戦線で敗走を重ねたことに加え、打撃が大きく効果の薄い戦術を改めずに兵を次々戦線に送り込んで死なせたことである。 それは現在のロシアのウクライナ侵攻でウクライナの設定したキルゾーンに丸腰同然の兵を次々突撃させて無用に戦死させ続けている愚戦術にぴったり重なる。

 これ等の経過からすれば、独ソ密約でヒットラーと同時にポーランド侵攻を始めてWW2開戦としたスターリンは枢軸国首脳と同列に「戦争を引き起こしたA級戦犯」の位置にある。原爆投下や東京等都市大空襲も一般市民を狙った重大な国際法違反=戦争犯罪だが、戦争そのものを引き起こした責任はもっと大きい。
 敗戦国政府としてこれを言えないのは、講和条約の中身として「侵略者枢軸国」を承認している=国際条約の中味を含んでいるからだろう。
 日ソ間の平和裏の確定国境線は元五稜郭幕府軍総司令官榎本武揚が下獄釈放後交渉を担当した明治の樺太千島交換条約1875年が根拠になるが、サンフランシスコ講和条約ではスターリンの要求する千島放棄が明記されて南千島(国後・択捉)と歯舞・色丹(北海道)を含んでソ連が占領、連合国側の「領土不拡大」の国際公約を踏みにじっている。
 そういう政治的制約のない在野の学者・歴史家が独自の客観評価を行うことに制限はないのだが、日本の右翼勢力は「大日本帝国無謬論」と期限切れ通告をされた「日ソ不可侵条約違反」は執拗に繰り返すが、連合国側の領土不拡大公約違反、特にソ連スターリンの暴挙と、それを許した不当なヤルタ密約への言及がないのは不思議であり、平和裡に締結された樺太千島交換条約を根拠の全千島返還要求は政党としては共産党のみである。

 なお、スターリンの評価をめぐっては1956年のソ連共産党20回大会の秘密会でフルシチョフ報告により独裁・テロ支配の概要が報告、糾弾されて集団指導体制へ移行、一旦は平和共存路線を許容。 日本では「党としてのスターリン批判を直ちに始めない」ことなどを以て共産党から分裂して幾つもの極左派を形成。 ソ連や中国共産党の指示・支援を得て「スターリニスト日本共産党」などの悪罵と攻撃を重ねて現在に至る。
 政党は主には現在の課題を動かす運動体で、現在の行動の一致を求められるものだから、過去の評価や将来展望については当面は相違が有っても差し支えなく相互に保留して次第に一致を目指せば足りるはずのものだ。 樺太の日ソ国境を越えて日ソの連絡に当たった党員は消息不明となり、後日、スターリンにスパイとして銃殺されたと判明し、ちょっと引いてみれば日本の党がそれを首肯出来る筈が無く、中ソの下部ではない組織全体の自主独立への方向転換に努力と時間を必要とするのだろう。 一部には宗教的確信を以て無条件に源を支持する向きも存在して、現に中ソからの武力革命唯一論の干渉に個人的に乗って、山村工作隊を組織して訓練や宣伝活動に参加した人達も少なくない様だから、その方向転換・意思統一のための丁寧な論議は必須なのだ。 そうした内部討議中の不一致点を論点に外部から相手を攻撃・敵視することは運動原則上も規約上も許されない。 離党して別の党を結成すべきところ、逆にソ連の支持を得たソ連派日本共産党「日本の声」を名乗ったり、文化大革命支持武装闘争唯一論の中国派日本共産党山口県委員会「人民の星」では共に他国共産党の出先機関化してしまい中ソが両派への支援を止め絶縁すると独立性・正統性を失って衰退・雲散霧消していった。

Fire Fox 3 Table test:Small
test TEST
  test

2026/03/31 23:55

[Page Top↑] 旧
新
戻る