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河合弘之先生東京新聞夕刊連載随筆
ミツミ電機71年春闘解雇争議補足

 原発弁護団長河合弘之弁護士の東京新聞連載「このみち」(#47:右掲載)でミツミ電機71年春闘争議が採り上げられていて地元として大変懐かしく読んだ(著書「脱原発」も読んでますよ!)。 しかしその内容は、微妙な差違、あるいは不足があり、全面勝訴した1976年地裁判決がなく、その12年後に半数2名が逆転敗訴した高裁仮処分判決(1988年)をなぞって、主に「記憶」で書かれたものの様にお見受けする。



 東京地裁八王子支部の仮処分判決(1976年)では全面勝訴。 2名逆転敗訴の高裁判決(1988年)後には勝訴した2名に職場復帰指示が有り1名が原職で就労していて、全面敗訴とはニュアンスが異なっている。 しかも職場からの排除を策した解雇や大阪配転だったのに、事実上の専従執行委員として会社内の組合事務所を拠点に19〜20年間余も活動を続けていて労働組合の根絶やしには成功していない(職場復帰指示2(うち自主退職1)、途中死亡1、退職解決2、不提訴退職1、計6名の解雇処分)。 唯一人職場復帰したのは学生運動時代も参謀格で、労働組合結成の参謀格書記長!調布・厚木両委員長2名の解雇結着と労働組合の吸収合併だけ見れば負け判定だろうが、違法の不当労働行為を重ねても絶対に許さないと思っていた「労組結成」の「重要主犯氏w」を職場復帰させていて、連合系労組へ個人排除無し個々手続きなしの全員吸収合併、統合組合の役員当選・中央執行委員長就任は相打ちと云った処だろう。 学生運動での民青同参謀氏は時折人の心を大きく動かす戦術を提起して卓効を上げて、人扱いには慣れてない技術屋群が現場労働者以上に目立っていた労組結成運動をリードすることが多々あった。 無組合経営を誇った会社にとっては厚木の開発本部藤原執行委員長人気と並び、最悪・一番の仇敵:参謀氏であった(w。
 総評解体御用連合化、国鉄分割民営化攻撃下で、多くの争議が終結させられる流れの中での東京高裁の説得力に乏しい逆転判決であった。 河合先生が、右随筆記事文末で強く責任を感じられることとは内容がかなり違う様に思う。 同じくピケの正当性で争われた電子顕微鏡製造の日本電子事件(1968年?発生)では仮処分1審勝訴後に職場復帰解決しているが、日立製作所の残業拒否解雇を正当だとする東京高裁・最高裁判決が出され、それが事前に裁判官会同で裁判官たちに指導されていて思いも寄らぬ逆転判決となったのと同じ逆行の流れだった。

 当方、組合側が次々降りかかる大量の事件処理に追われて、古い繋がりを放置してきた結果が微妙な齟齬なのだろうが、河合先生が思われるほどは悲観的な経過ではない様に思うので、もう危うさも現れた私の「記憶」で述べてみたい。
 河合先生がミツミ電機争議に関わったのは、71年春闘解雇処分の東京地裁八王子支部地位保全仮処分裁判提訴からで、最終準備書面などの原稿分担と、別件で裁判外の労使交渉成立として全員職場復帰解決した108名合理化解雇(1974/05/02=社内放送による解雇通告で全国三百数十名解雇)の地位保全仮処分裁判訴状の分担で、何度も裁判合宿に参加、3年間に渉って弁護団と労組側の方針討議と作業に加わられていた。 最終準備書面作成の裁判合宿出発予定の日(1974/05/02午後)に、社内放送による大量解雇通告がされたのだが、その108名解雇者職場復帰解決が決定した同年1974年秋に組合側の代理人・顧問弁護士を辞任されていて、1975年春の地裁結審時、翌年春の全員勝利地裁判決時には既に組合側弁護団にはおられなかった。だから河合先生は争議の現場で、お一人で動いたことはなかった。
 会社側弁護士が、事件を膨大化して判決を遅らせて組合側が倒れるのを待つやり方の河村貞二弁護士で、春闘期間中の2ヶ月近くの一挙一動の総てを歪曲誇大化して違法行為として日記風に述べて争点に仕立て上げ、会社に解雇裁判専任社員を2〜3人+応援者を置かせて、労働側は個人経営の法律事務所では到底受けきれない物理量の「終われない裁判」にされていた。 会社側弁護士としては裁判が続いているあいだ、高額報酬が得られてウハウハ体制だが、解雇で暮らせない労働側と代理人弁護士にとっては堪ったものではない。 解雇処分直後の解雇執行委員・組合員への入構妨害排除と団体交渉応諾の仮処分裁判(1971/07)は三多摩法律事務所が組合側代理人で1週間程度で勝訴したと思う。
 河合先生は中核派系の人脈から組合に来られた模様で、途中、後の108名大量解雇で被解雇者数名が「裁判提訴は闘争を長引かせるだけのもの。実力闘争で突破する」といって裁判提訴を強烈に拒否し続けるのを説得した時に、「裁判は闘争が長引いても支える手段の一つ。「中核派系」を介して弁護団に参加された河合先生も支持の方針だ」として説得を続けて(裁判拒否を言う解雇当事者の相談も受けられた?模様で)ようやく収まった。
 組合側の主任弁護団が、メーデー事件(1952年)騒擾罪被告を全員無罪で勝訴(1972年)させた先生方が三多摩地域に立ち上げた民主法律事務所:三多摩法律事務所・八王子合同法律事務所などの所属だったことで、中核派影響下の被解雇者数人が「敵対勢力:共産党」と邪推した様だし、激しい言葉とは裏腹に、裁判闘争開始に強い不安があっての言舌だろうが、何とか方針の一致が得られ、皆で纏まって闘い、5ヶ月の短時日で職場復帰解決できて良かった。 極左派が「民主法律事務所」を「共産で排他的」などと攻撃するが、実際はまるきり逆で、大変柔軟だったから中核派など個々には極左派が混じっていても労働運動として合意で動いている限り29年もの金にもならない長期争議を支えていたのである。 私など元はノンセクトで、個人参加である清水谷公園発のベ平連ヴェトナム戦争反対デモに研究室から白衣のママ参加していた(∵「組織」に細々と縛られるのは好みでなかったから)。 合意形成を無視して無茶苦茶な方針で単独暴走し、組合員・労働者の信頼を喪い自壊したのは中核派であった。 (「騒擾罪=騒乱罪」は、たまたまその現場に居たと云うだけで有罪とする危ない弾圧立法で、現在、香港で民主派弾圧に使われている中共の法と同等のものである。メーデー事件では、皇居前広場(人民広場と位置付け)から帰宅し始めていた群衆に、警官隊が襲いかかって拳銃による射殺者も出て、団体活動家が恣意的に狙い撃ち立件されていた。メーデー事件についてのWikipediaの記事は不当弾圧した公安側の言い分で書かれていて、判決・事実と大きく異なる)
 河合先生の代理人辞任の後、1975年春に最終準備書面提出、1976年初夏に解雇無効・全員勝訴の地裁判決を得ているのだが、河合先生の代理人辞任から14年後、1988年の高裁2名逆転敗訴判決は「判例時報」などの高裁判決記事に依っているのだろうか?そこ「判例時報」は判決紹介だけだから逆転判決後の(復職指示2名中)復職1名の話は載らない。

 調布工場の争議現場に河合先生が臨場されたのも、約2週間のピケットの最後の時期に朝日新聞報道のあった後だから、河合先生ご自身が工場正門脇メッキ工場建物の壁にある垂直の非常ハシゴをよじ登って、8m高もあり手摺りもない屋上から拡声器マイクでピケの指導をされる場面はなかったのでは?? (因みに、その拡声器アンプと大スピーカーはまだ使える形で現存している!w。1988年頃に故障で買い換えられて、一旦「廃棄」されたが、1978年頃から何度か自家修理を重ねて、松下通信工業「Pana Amp-25S」1970年製造後50年現役)。 河合先生の記事は会社側が解雇理由として出した裁判書面で主張された組合側の行動であり、裁判書面を分担された河合先生ご自身のピケ前での遣り取りの体験と記憶が混線されたのではないだろうか? 組合結成初の71年春闘の中心要求も「せめて電機労連各社並みの労働条件は保障せよ!ボーナスは年に2回」であって「賃金カット」云々(記事2段目)はなかったから、事件から50年を経ての記憶の混乱であろう。 会社側提出の解雇理由の準備書面の「事実」主張部にピケ隊側論戦参加者としてお名前が出されていたはず。準備書面の事実主張内容に相手方弁護士名が出てくるのは確かにごく希な例だろうが。

 調布工場の組合員は20歳未満前後の若い女性が9割を占め、執行委員の過半数が若い女性で、その平均年齢が20歳を切る出来たての労働組合で、垂直鉄ハシゴを掴んで登って柵もなく危険のある屋上に女性は登らせたくなくて、数少ない男性の執行委員・職場委員が引き受けて登っていて、ピケの指揮用(=当時の報知新聞争議で使われた暴力ガードマン攻撃に女性主のピケ隊保護待避をも想定。隙間の多いジグザグのピケだから、通路の両側に待避すれば広い通路が空いて暴行襲撃は困難)に拡声器も屋上に設置されていたし、ピケの要領書も配られて何度か説明されていて、後半の時期にはピケにも慣れていて「詳細の指導」は要らなかった。 闘争指導部の制止を圧して屋上に昇って「歌唱指導」していた女性も確かに居たが、実は、良く闘争支援に訪れていた隣の会社のBF目当てだったとか。後日ちゃんとBFをゲット!でそれが判明(w。

 河合先生の記事3段目中央の
「管理職ら職制を「通すよ」「通れよ」と言いながら足でバーァンとけったりしていたようです。それが後でバレちゃって、」
という部分は、勝訴した地裁八王子支部判決の事実認定には存在しない部分で、逆転敗訴東京高裁仮処分判決の事実認定の主旨だが、それを組合側顧問弁護士の認識と取れる混同した書き方をしてはいけないだろう。 今も続く、働く者を護る組合運動への「アカ」「極左」といった攻撃宣伝を強めてしまう。 細かな相違はどっちでも良いことだが、今後の運動に影響しかねない大枠の「認識」公表は不用意に過ぎるのだ。
 ピケを撮影した8ミリ・シネ無声映画を支援集会などで何度か見たが、画面の役職者は、前面の列に並んだ男子組合員の列は通過していたが、若い女性ばかりの列に入ると顔を顰めて進入を断念、外に出てしまった。20歳前後の女性達の嬌声に耐えられなかった様なのだ。時折混じる「どすけべ〜〜!」とかが耐えがたかったとか。

 ミツミ電機は、今で云う超ブラック企業で、酷いエピソードばかりだ。 「年間10ヶ月のボーナスがでました」と人を募集しておいて「年間ボーナス0.9ヶ月」(1967年など)とか、 集団就職などで全国から集めた労働者に、残業自体が違法の未成年者・定時制高校生を含む強制残業・罰残業を強いていて、生徒の通学保証を求めた都立神代高校に「融通を利かせて出席扱いせよ!他校は応じている」と逆ねじを食わせて監督署の査察の日だけ登校させ、以降は社員募集パンフの紹介・指定校から外したとか、 労働組合のないことを世に誇っていて、子会社のアンネkkでは、公然化前の労働組合員全員解雇弾圧で結成失敗させているし、 調布工場でも、労働組合結成指向を疑われた女性工員たちが新設厚木工場など他製造部にバラバラに配転・分断されて活動できなくされ、工場の応援・配転を巡っては、女性達が何度か労働組合無しの山猫ストを敢行するような酷い職場状況が有って、 1967年秋、総評全国金属労組の結成呼びかけに対抗して、府中市民会館に全社員を集めて森部社長自らが組合不参加を強要、首謀者解雇・配転で臨んで組合結成を失敗させていての、 社員団体代表者:開発本部技術者の藤原委員長(右記事中段末節「労組委員長」)の関西営業所配転強行で労組結成・専従化(=営業職転職拒否&大阪営業所赴任拒否=1970年夏)だし、 入社式前の男子新卒者に反労組を叩き込み養殖御用組合に加入させる総員82名対向ビンタの生産性本部函南合宿所での秘密合宿新人研修(1976年〜)、そして労働組合結成後最初の71年春闘解雇処分なのだ。
 会社は一貫して「強硬」なのであり、近隣の都立定時制高校に通学できると云って釣った社員生徒に有無を言わさぬ強制残業、 71年春闘解雇処分も、74年の108名合理化解雇+御用組合ユニオン・ショップ協定も、過労性労災病(主に頸肩腕症候群背腰痛症)認定患者数の日本一(休職数年の職場復帰は高率9割)など、無法な「強硬」政策の現れだった総体的な流れは思い起こして戴きたい。 組合側がひとり「強硬」だったのではない。

 総評解体・日本の労働運動破壊を狙った国鉄分割民営化と、同時に立法された労働者派遣法で、労働運動・労働組合による労働条件、労働者の権利擁護の闘いが非常に困難になって、今や若年層の過半数が派遣・非正規労働の劣悪な労働環境に押し込められて家庭を持つどころではない貧困に押し込められている現在、「ピケの権利」どころではなくなってしまったなかで、現場の労働運動に言及され多数の読者・国民に想起させるのは大変有り難いことではあるのだが・・・・・・・・・・補足はしておきたい。

懸念通り!蛇口ノブから接触感染!コロナ
都営地下鉄大江戸線運転士クラスター  <2>

 都営大江戸線運転士にコロナのクラスターが発生して間引き運転する事態になったが、その集団感染源として「水道蛇口(のノブ)」が報じられた。懸念した通りの感染ルートで、右写真のように先に手を打っていて良かった!自動接栓交換には5万円余掛かるそうで、零細な店子には手を出しがたいなかで、非常に安価に出来るレバー化は感染リスクを下げる応急措置である。
 当初は良く理解出来ない人も居たようだが、感染ルートとしては、先ずウイルスの付いた手指で蛇口ノブ(写真左側)を回すので、ノブにウイルスが付着、綺麗に手洗い後、再びノブに触れ、他の人も触れるから手洗いに意味が無くなるのだ。
 ノブをレバー(写真右側)に取り替えると、汚染の付着しやすい指紋側手指ではない甲側で操作できるし、レバー洗浄も簡単になって、接触感染を減らせる。 当初は半信半疑だったものが、大江戸線感染原因報道後、消毒液を浸したタオルが店の水道流し台に置かれるようになった。 店の入口には既に「会員制」の札が下がるようになり、他店のコロナ閉店に追われたフリの客を排除して、常連客で繋いでいる。 重大な既往症のあるママには必須の賢明な防衛措置だ。
ノブ→レバー交換は材料費僅か400円弱で付け替えられるのだから、早く手を打った方が賢い。

本日、阪神淡路大震災26周年!合掌@1995/01/17

2021/01/17 05:55

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