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入院当初から快復の見込みのないことと何段階かの危険な状態が医師から告げられて、4ヶ月近くを経て危篤状態に陥り1週間程で亡くなり、葬儀告別式納骨と続いて一段落となりました。卒寿は過ぎて天寿を全う。生前に故人から聞いたところに拠れば、誕生日に大嵐に見舞われて届け出が1ヶ月近く遅れたというので古い記録を調べると、丁度亡くなった日が大嵐に見舞われて学校が廃校移設になり多くの家が壊れたりの被害になっていたことが判明。どうやら誕生日に亡くなった模様です。
私が引き受けた分は物理的にはたいした作業量ではありませんでしたが、気持ちの負荷は大きかったようで疲労困憊。周辺の雑用が落ち着いたらまた書き始めます。
遺族の断ちがたい想いを刻んだ兵隊墓は、一人用でカロートという納骨室もなくスペースファクターが悪いため、戦没者遺族が亡くなるのに合わせて寺側の主導で一般形の墓に改葬されてゆき、6年前にはまだ14基あったものが今は7基と、あとわずかになってしまいました。聴くところに拠れば大住職が最後の学徒動員組で戦地から運良く復員されているとのこと。碑文に拠れば終戦の8月を過ぎて11月になってからニューギニアで戦病死というのもありました。5丁目までの狭い町に3つの寺が並立してそれぞれの墓地がありますが、他寺では既に兵隊墓はほぼ淘汰された様で、改葬処理の遅れている浄土宗善勝寺が特に商売上手の経済主義的経営をしているわけではありませんし、小さな町でよくもまあ3寺4神社1教会も成り立って道祖神の祠と平和の礎碑まで良く残っているとは思うのですが、新たな戦前の危惧が顕在化した今、痛恨の歴史の記憶として兵隊墓石碑は残って欲しいものです。しかしながら、かっては農地の一角に先祖代々の墓がありましたが、土葬禁止とともに墓地の集約が図られて、この町で寺院外に残る墓地は2個所3家分で、そこには兵隊墓は既にありません。
故人の生家玄関には「靖国の家」という紫色のプレートが貼られていました。前途有為を兵隊に取られて若くして戦死したのに、国が祀ってくれないでどうする。他国に勝手に攻め込んで死んだなんて可哀想で到底受け入れられない。せめて国に残る家族を護るため命を捧げたと思いたい。絶対に戦争をしてはダメだ、というのが故人の思い。靖国神社の運営を占拠したアジア侵略正当化、靖国史観でイケイケドンドンの極右勢力とそこに祀られた戦没者遺族の想いはまるで違うのです。
[参考]:惨烈の時代/無言の凱旋 英霊奉迎
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