■■■ 房総東線・房総西線終点安房鴨川駅@1977/02 ■■■  <Awakamogawa>


安房鴨川駅うちぼう線進入@Tc111運転室より、木製枕木の線路
1977/02/26 Olympus M1-MD改(OM1’)+f 200mm、F4+MD’
 1972年の房総電化完了を追って房総の急行・準急に新形式新製の特急電車183系を投入して特急化した。 しかし急行に比べて僅か4分のスピードアップでの急行料金大幅値上げとなって苦情が集中したことで、後の一斉のダイヤ改正時に25分のスピードアップを発表した。 ところが当時の房総各線は、木製枕木に犬釘で軽量30kg/mレールを止めている区間が主で、線路整備が非常に悪く、当局発表のダイヤではリスクが多くて走れないとして、当時の国鉄動力車労組千葉地方本部(動労千葉)執行部が安全確保闘争として線路各地点毎の制限速度を布告。
 上掲の写真でも房総東線・西線終着の主要駅である安房鴨川駅構内が木製枕木であることが見て取れる。(下の写真は上越線上り土合駅だが、ポイント部以外の本線はPSコンクリート枕木(≡PC枕木)。当時本線は50kg〜現60kgレール+PC枕木。木製枕木に犬釘は最低ランク) 写真は、当時まだ珍しかった交換レンズ式1眼レフカメラOlympus M1-MD改に望遠レンズ200mmとモータードライブ(=ワインダー小改造)を付けて運転室にかぶり付いて撮影していたら、運転士からキャブ内に招かれ「酷い波乗り線路をちゃんと撮っていってくれ」といわれて房総西線外房区間の千倉を出てから安房鴨川までを運転室で撮影したもの。 列車は激しく揺れたが、さすがにガラスの歪み像と区別できる線路歪み映像は撮れなかった。乗客の増えたこの安房鴨川駅で運転室を退出した。 当時は暴漢からの保護などで乗客を頻繁に運転室に入れていて、ラッシュ時間の車内でベンチに横たわる国士舘大学のグループに因縁を付けられたのを運転室内に保護したりもしていたが、今だと処分が懸念される。 東武鉄道など客席で騒ぐ幼い息子を運転室に隔離して懲戒解雇されてしまった。 乗客は勝手に殴られていろ!ということだ。

 その制限速度提起が線路実態に良く合って運転士たちに良く守られて、当局ダイヤ(=25分速達化)は一度も実施できずに10分遅れ(=15分速達化)が実態ダイヤとなって、まだ複線だった総武線通勤区間のダイヤは特急優先追い越しでメチャクチャになったが、約半年後、組合ダイヤを正式採用し、線路強化改良が約されるとともに、房総速達化と同時に強行された全国の速達化ダイヤの見直しが行われて全国での無理な速達化ダイヤ問題が解決した。(しかし、線路改良後の房総のスピードアップのニュースは聞かないが・・・・・・・・?)
 この成果と、船橋駅追突事故1972/03/28で業務上過失傷害で有罪とされた運転士を原職復帰させたことで動労千葉は全国の国鉄労働者から一目置かれるようになった。 さすがは対象者組織率94%の労働組合ではあった。

 動労千葉による地点毎速度制限令は当時の中野書記長(後の委員長)を中心とする執行委員会で作成されたとされ、それが事実であれば、表面的には仕事軽視、侮蔑の極『左』勢力、中核派の言い分とはかなり違って、自分たちの仕事内容を当局側以上に知悉していたことが分かる。 (千葉動労公表の資料を読み込むと、仕事のエキスパートが労働組合の技術的政策の裏方に居ることは想像されて、彼らの宣伝通りに「執行委員会の制定作業」かどうか、実は裏方提案の承認だったのか?の細かな真相は判らないのだが、布告内容の妥当性は否定しようがなかった。)
 どうも千葉動労中核派の「仕事否定」は競合する活動家の職場の信頼を貶めて自らの優位を確保する「三味線」に見えてくる。 職人・技術労働者は仕事で信頼できない者の言い分などまるで相手にしないものなのだから。 この点では仕事上のちょんぼ救済者に職場の役員を押し付けて無批判従順の労働者支配役員層を形成して、そのデタラメな仕事ぶりや浦和事件など集団リンチ・吊し上げで非難を浴びているJR東日本労組革マル派との際だった違いになっているようだ。

 しかしながら、労働組合と、殺人テロ集団中核派との関係を整理できずに擁護し続けて、拠点である幕張電車区快速下り線側切り通し擁壁一杯に「革マル殺せ!」などと2〜3m角文字で大書していて、殺人テロ合戦推進・擁護では、まともな労働組合・民主団体には相手にされなくなったばかりか、労働運動そのものの否定世論の浸透に与する犯罪的愚行を長期にやめなかった。 あの「殺せ!」スローガンの長期放置は労働運動全般への嫌悪醸成を図る公安・JR当局の政治的政策的決定ではなかったろうか。
 国鉄労働運動弾圧反対には支援したくとも、異論を命を奪う爆撃で封じる極『左』派の野蛮さには到底接近できず、私の所属していた労組組織としての関与には断固反対で否決。 異論を述べたら爆撃されるような間尺に合わない危険なところに我が組合員を晒せない。 他労組も同様で動労千葉(通称千葉動労)は孤立することとなった。

■■■ 上越線土合駅上りホーム@1977/07 ■■■  <Doai>

 我が某社は職業性の蓄積過労疾患である「頸肩腕障害背腰痛症」の労災認定患者を30名も出してしまったブラック企業職場であった。 病状の推移に任せた自然治癒はほとんど望めないほど症状がこじれてしまい、職場復帰に数年から10年掛かる中で、体力の回復、生活力の回復を目指す様々の取り組みを患者個人に合わせて労働組合として提起し、日常の散歩、会社・労働組合事務所までの出社訓練を端緒に、患者会のレクレーション、ピクニック、高尾山・陣馬山など山歩き、と体調に合わせた回復段階を踏んで体力と自信を付けさせ職場復帰を果たした。
 その数名は職場復帰が決まってその直前に、回復確認と自信を付けるため、谷川岳の一般コース登山を敢行。 まだ若かったこともあり、職場復帰後の時折の酷い不調も谷川岳登頂成功の自信に支えられて乗り越えることが出来た。 遭難が度々報じられる「魔の山!谷川岳」も沢の岩登りコースのことで、実は一般登山コースはそんなに難しい山ではなく、マチガ沢から西黒尾根に上る巌剛新道登頂コース上り3時間半が標準時間である一般向け中級コース。 しかし登山成功のレッテルとしては心理的効果が非常に大きいのだ。その絡繰りを知って企画。
 現在はとうに廃止されている普通列車だが、深夜の上野発で03:00頃に地中の土合駅下りホームに到着するもの(上野発長岡行き733M普通列車?)があり、谷川岳の登山列車化して多くの山好きが利用していた。 谷川岳の山開きに合わせて土曜夜行の臨時快速列車が設定されたこともあったようだが、山行き客の減少もあり、現状は水上からの「臨時快速もぐら」運行に留まり、これは日中の谷川岳天神平ロープウェー向けで、登山用ではない。 地下ホームから486段(=462+24)の階段を上って改札を出て、ロープウェー駅を過ぎ、夜明け頃にマチガ沢出合を経て巌剛新道を西黒尾根に登り谷川岳頂上まで、倍の時間、実に7時間余を登り切って、天神尾根を下って天神平ロープウェーから土合駅へ戻った、 その帰路の清水トンネル上の道路から土合駅上りホームを撮影したものが左下の写真である。当時のアルバムからスキャンした画像であり、南向き撮影である。なお486段は、ハイキングコースの高尾山琵琶滝・稲荷山、陣馬山和田峠各コースの山頂直下の階段約500段と同等で、普段ならさほどキツいコースではない。夜汽車の不眠のママいきなり登り出すからキツいのだ。
 現在はホーム右側の副本線は撤去されている。また撮影地点にはその後、雪覆いが設置され、樹木が生長していて視界が遮られていて、この写真を撮るにはかなり難儀するはず。

 重度の頸肩腕障害背腰痛症は、ほとんどの場合、蓄積過労単独ではなく、「そんな病状信じられるか!ぶったるんでる!」などの罵声を浴びせて、訳の分からない病状に苦しむ患者を徹底して追い込んだ上司のパワー・ハラスメントがらみで強い鬱状態に陥るなど極端に病状悪化して長期の労災休業に至るもので、リハビリ就労を経て、現職復帰まで数年〜10年の療養に至っている。 労災患者のほとんどを現職に復帰させた繰り返しの経験から云えば、労災認定基準とはかなり様相の異なる部分の多い発生原因である。
 高電圧の1000ボルト・メガー(1000ボルト絶縁抵抗計)の計測リード線が周囲の機器に時折接触して激しい電撃を繰り返し受けているのを文系出身の製造部上司たちでは原因究明できず、根拠がないのに「そんなはずはない!甘たれるな!」と罵倒して作業継続を強要、重度化して欠勤を繰り返してしまい、見かねた同僚の御用第2組合員が、一貫して労災職業病問題に取り組んでいる第一組合:我が労組に繋いで職場調査・原因究明、休養保障、労災申請・療養補償と職場復帰に取り組んで原職復帰まで5年を要するなど実に酷いものだった。 公式作業量記録の作為を暴いて、不良手直しを含めると3倍もの実作業量のあったことも糾明。 労災認定されて労組に加入。 御用組合支配下で、わが第一組合員の居ない職場は情報が掴めず、会社側のやりたい放題だった。
 労働省は松下電器での職業性の頸肩腕障害背腰痛症の対策要求の不破哲三質問を機に、労災認定自体は行うようになったが、その認定基準が病気の実態とは乖離していて、さらに恣意的な認定排除で労災申請の1/3〜1/4程度しか労災認定されなかった。 そんな中で我が組合の関与した労災申請が100%認定されたのは奇跡的だった。 ベルト作業者で、過労で憔悴しきった患者任せにはせず、執行委員会上げて取り組み労災病の主治医たちと相談しながら職場調査・討議・分担し、職場世論形成の情宣活動とともに業務起因性の客観的立証に科学リポートのような実態調査と数学の証明のように緻密な「意見書」(陳述書)を作成してことは大きく効いている。
 NECのお膝元、東京港区芝の三田労働基準監督署などほとんど全数却下だった。 労働省の定期異動で、そうした恣意的・敵対的な係官が我が担当地域の労働基準監督署に異動されてきて、頸肩腕障害重症化の重要なきっかけである1000ボルト・メガー(絶縁抵抗計@1000V)の激しい電撃下の作業強要について「電撃と云っても、安全装置があって、命に別状は無いんだろう」と、労災申請却下を仄めかしたが、「そう言うなら、自分で1000ボルト・メガーの激しい電撃を受けてから判断しなさい。耐えがたいショックだ!現場検証の時にでも体験用の機器は準備させる!」と返すと逃げてしまって真面目に検討する気はなかった。 精神分裂症患者を電撃療法の恐怖で押さえ込んでいた非常に残酷な処置だって「生命への危険は無い」として強行されていたわけで、監督署労災課員の認識はそういう酷いものだった。 幸い次の定期異動で上司の労災課長が他労基署で頸肩腕障害を労災認定してきた人に替わり「実態を見て認定をする」ということで間一髪!悪意の思い込みによる恣意的労災認定却下を免れた。
 さらに労働省として長期療養患者の労災補償・解雇制限の全面打ち切りを策して、三井三池炭鉱炭塵爆発事故(1962/11/09:東海道線鶴見事故と同日!)のCO(一酸化炭素)中毒患者など継続治療の必要な労災患者2400人余の労災補償を「長期」として一律に打ち切った措置に、我が経営の頸肩腕労災患者の数名が引っかかり一律解雇される危険にさらされた。
 資本側の意をていした国策弾圧で分割民営化国鉄労組弾圧同様不当打ち切りの撤回には大変な困難が予想され、労働組合として治癒現職復帰のため「最悪でも首だけは繋ごう」という獲得目標を決めて、監督署による労災打ち切り決定=解雇制限解除に対する「審査請求」、「再審査請求」、「行政訴訟」提起を決めて、その煩雑で大量の事務作業を体力気力の落ちている患者ではない、労働組合・支援者が担って長期に争い、患者たちの職場復帰訓練の時間を確保、患者全員が全日就労まで快復したところで、再審査請求却下とされたが、既に病状快復して全日就労している患者を改めて解雇することはできなくなっており、労災補償打切・解雇制限解除の実効性を失わせた。 審査請求を却下、解雇制限解除を認めた審査官に後日、別件で面会した折りに「全日就労成功」を告げると、思わず「良かった!良かった!」という。 「あと2年もあれば現職復帰できて首を切れなくなるから、上から無条件却下を言われてるんなら、それまで審査を塩漬けにしておいて」との申し入れに、「え〜っ!塩漬け〜!?」と驚いて、1年近く却下を保留した審査官だったが、案の定、審査官たちも労働省から無条件切り捨て決定を命じられていたのである。
 科学調査か数学の証明のような厳密な「意見書」(陳述書)を、組合執行部の設計技術者たちが主に引き受けて綿密な業務起因性立証を重ねて理屈の上では逃げ道をなくして、背景世論形成に、共産党、社会党の地方議員と、地区労各組合の応援を得た監督署交渉で、世論として決定を見守っていることを示しての希な全件労災認定だったが、患者の国策切り捨ては覆せなかった。
共産党の一部に「労災闘争は極『左』勢力の影響力拡大の運動で、タッチするな」という不正確な情報と指示が飛んでいたようだが、「この患者さんたちは一般労働者で極『左』じゃない!」「○○(患者)は党地区役員のカミさんだろうが!」などの主張に支援の議員さんたちが乗って反対論を抑えてくれて曲解を突破。 患者個々には成田闘争極左派の妻とか、創価学会の公明党選挙毎炊き出し部隊とかも混じって居たけれど、蓄積過労労災に苦しみ救済が必要な労働者であることには変わりなく、組合執行部で飲み込んで労災補償要求活動を続けた。(公明党炊き出し部隊の患者が唐突に学会・公明党の悪口を言い出すので、「ありゃ、俺たち、共産党だと思われてる!学会派は実に現金〜!(w」とは思ったのだが、変わりなく労災認定・職場復帰を実現させた)。 何処にも教条主義者は居て悪影響はあるが、無用に対決せず上手くスルーすれば足りると感じた。 幹部が問題だと引きずり下ろせる体制があるかどうかが明暗を分けるが、組織の衰退や不適任者の解任などで長期には続かない。
 また職場に味方なく孤立した患者の追い詰められた気分には、極『左』系の突撃自爆主義の方が良くマッチする。 病状快復・職場復帰目指した様々の取り組みなど、治療効果に絶対的な保障はないチマチマした試行錯誤の連続だから「発症責任のある会社側が、非道い病状をナントカしろ!」と迫る方が遙かにスッキリして過労性労災患者を纏めやすいのだ。 ここを見ないで「頸肩腕障害闘争は極『左』のもの」とは短絡的に過ぎるのだ。第一、頸肩腕障害が労災認定される幅を大きく広げたのは不破哲三書記局長の委員会質問だったではないか!

 さらに「後遺症認定と労災打ち切り保障」を、長期の自費治療で快復した現状ではなく、監督署が不当に打ち切った時点での障害で支給せよ!快復した現状で後遺障害認定するのなら、原状回復までの数年間の自費治療分を改めて労災認定して保障せよと労働基準監督署に要求。 その交渉により障害等級が2等級アップして20万円弱保障に、会社支給の労災補償付加給付と併せて200万円ほどを認めさせたのだが、監督署はその「鑑定診断」と称して、女性患者を下着無しの丸裸にして診察を受けさせる嫌がらせをしていたことが、大分経ってから被害患者の証言で判った。 数年前の労災打ち切り時の後遺障害等級など主治医なら記録があって判るが、無関係の医者では過去は判らず、治癒固定認定後の数年間で治療効果のあった現状しか判るはずがないもの。 しかも被害患者は下着を剥いてみたいほどの美形ではないフツーそれなりの叔母ちゃんだったから「患者への嫌がらせ」が当人にもますます明確になって、この役人・医師たちはクズだ!と実に腹が立った。
 しかし中にはまともな監督官たちも居て、司法警察権を持つ公務員として唯一、全労働省職員組合に所属して、民間労組活動家たちに職場の安全点検のノーハウを講義・厳しく実践指導していたのも事実だった。 その指導の強烈さには、そんなにやっつけなくても良いじゃないか!と感じたくらいだった。
 後年、会社側も、労災申請への嫌がらせを続けた人事担当者が長期間の採用旅行途中で過労に倒れて2ヶ月余の長期療養に陥り、労災保険休業補償給付の基本給不足分支払い長期化の不経済に気付き、「リーダー講習」、「ケース・スタディー」などと上司のパワハラ対応回避の指導を行うようになり、過労のベルト作業者部下に対する剥き出しの悪意は抑制されて、労災申請するような重症者は現れなくなった。 発病当初の急性症状期に充分休養を取らせ必要な治療を行って、過労状態を緩和させることができれば、治癒に何年もかかる様な重症化はしないもので、中には数日の休養と治療で快方に向かい数ヶ月で治った人さえ居る。 無理解上司のパワハラや周囲の虐めが最悪なのだ。 また必死の頑張りで運良く治ってしまった人が、その成功体験から「当人の頑張り以外に治療法はない!」と重症患者を責めるのを、職場世論で包囲して宥めていくのにも苦労した。頑張って治れなくて重症化して動けなくなるのだから治癒解決の途を閉ざしてしまうのだ。
 なお、「科学レポートのような緻密な主張・立証を患者側から行って労災認定を得ることは、一般個人の患者ではほとんど不可能で、本来、労働基準監督署側で調査を行って掘り起こすべきことをサボらせて、安易に労災不認定するのを合理化させてしまう傍迷惑なやりかただ!」という非難も患者支援側から浴びた。 確かに物事の両面ではあるが、一旦労災外判定されたものを覆すには何倍ものエネルギーが必要となり、闘いきれないのだから、立証ノーハウの普及と、膨大な事務作業を含む支援体制の確立で切り抜ける方が正道だろうと思う。 患者たちの支援でパンクしかかっている運動側の思いとしては「行政に真面目に仕事をやらせろ!」、「詳細緻密立証が認定の基準とされては一般個人患者は認定困難になる」という批判は実務的には良く判るのだが、労災認定させるためにも先行認定例の普及と、運動組織と認定申請ノーハウの蓄積など支援体制の拡大強化が筋ってものだ。 労働組合組織としての全数労災認定のための総力を挙げた努力は今でも間違ったことをしたとは思っていない。

   現在の上越線土合駅↑ 左と比べホーム右側の副本線が撤去されている
    鉄道ジャーナル2018年7月号No.621p32「上越国境めぐり」より

←上越線土合駅上りホーム&駅舎。本線部はPSコンクリート枕木。
   1977/07/23 Olympus M1-MD改(OM1’)f35mm+MD’
現在の土合駅上りホーム↑は道路脇樹木成長と雪崩避け覆いで撮影困難。

733M:上野22:11→大宮22:39/22:40→熊谷23:15/23:21→高崎0:10/0:48
        →水上2:36/2:38→土合2:48?→越後湯沢3:14/3:16→長岡4:42
 元々は、上野発秋田行(上越・羽越線経由)の夜行普通列車 1821レ
初回の谷川岳登山はこれを利用’68/夏。(新清水開通=1967/09/28。全長13,500m)
「43・10」:1968(s.43)年10月1日ダイヤ改正で電車化、上野−長岡間に短縮さる。


2018/06/15 23:55   (A3版 85%)