腕木信号機現示
  • 腕木に取り付けた2種類のフィルターの1つが腕木の動きで1個の信号電球を覆って現示が変わる
  • 腕木の裏面は白色に黒線

腕木信号機現示

【常置信号機分類】
 自動閉塞ではない腕木信号機には防御区間はなく、単に分岐器の開通・非開通を示すもの。進入の許容は通票などに依った。

<Rokken>
単線交換駅の信号機等配置
同時進入時信号現示
同時進入時の信号現示。 通票受け柱、通票渡し柱は通過列車のみが使用。停車列車で不使用時は倒しておく建前だが建て放しが普通
変更手順は、停止優先、双方停止で分岐転換、
通過時信号現示

参宮線六軒駅事故

●参宮線六軒駅で1956/10/15夕、六軒駅を過走転覆列車に対向列車が衝突し脱線転覆して死者46、負傷94の惨事となった。
●上下双方が快速列車で、下り列車が対向上り列車の遅れで11分遅延して亀山駅を発車したことから、交換駅を本来の松坂から手前の六軒駅に変更したが、その変更は津駅では乗務員には伝えられず、六軒駅に60km/hで進入、下り出発信号が停止であることに気付いて非常制動を掛けたが安全側線で停まりきれず脱線転覆して客車が上り線を支障、その20秒(地裁判決)〜30秒後(高裁判決)に上り快速列車が客車に突入して脱線転覆し高圧蒸気配管が破れて吹き掛かり大惨事となった。犠牲者に修学旅行中の高校生が多かったことから特に強く非難された。
●場内信号併設の通過信号は出発信号赤色にリンクして橙色相当を示すから制動を掛けて減速し、停止信号で駅に停まるはずだから、通過信号の見落としとされて裁判は決着したが、乗務員は一貫して通過信号は緑色で信号直前転換だったと主張した。
●普段六軒駅では交換することは無くなっていて、そこへ通過設定から停車・交換への変更が指示されて慣れない扱いにまごつき、現示変更時には下り快速列車は信号確認位置に達していて、操作が遅れた疑いは払拭されていない。(無論、見通しの良い現場で遠くから進行現示を確認していて直前転換に気付かなかった可能性もあるわけだ)
●また事故後の検証で重連の場合非常制動が後部客車に伝わらず過走に到ったことが分かったが、重連が常態の上越線清水トンネル越え電気機関車EF12や北陸線ディーゼル機関車DD50などの急勾配連続区間では重連用機関車に「中継弁」を設置して対策していたし、他でも事故寸前の不具合でその重連時の欠陥は知られていたが、国鉄全体への重連対策周知徹底は行われていなかった。(See
→日記#283戦前は補機を後部連結で回避。戦時体制放置)
●更に通告券発行は1947年から運転心得として規則で義務付けられていたのに同線を管轄する天王寺鉄道管理局では徹底されて居なかったので乗務員は交換駅変更を知らされず、通過駅と思って運転していた。(後の東海道線富士駅誤出発冒進事故2001/04/18でも乗務員はダイヤ変更を知らされていない)
●また、現在のように信号変更後一定時間はポイントを切り換えられないとか、原則同時進入禁止が規則として定められていれば上り遠方信号の橙現示で減速しており大惨事には到らなかった可能性が強い。更に交換駅変更を知らされてない下り列車の駅進入を停止信号で抑止すれば2段階の停止信号になり思い込み見落とし信号冒進の危険性は大きく減る。
 刑事裁判上は事故原因のエラーを冒したのが乗務員か、駅側かで終わってしまったが、安全確保の原則としてはオペレータエラーを前提に致命的事態に至らない手立てが求められており、重連非常制動対応の中継弁不設置、規則違反の運転通告券不交付、駅同時進入禁止ではなかった進路設定、転換時素未設定、ATS整備などの対策が未実施で、中には予算を必要としない手立てもあって、現場のエラーだけでなく国鉄としての怠慢もこのとき明らかにされるべきだった。このことと、証拠上の弱さから高裁判決では「執行猶予」が付いたのだろう。(刑事裁判の基本原則である「疑わしきは罰せず」の基準からすれば有罪である執行猶予ではなく無罪だと思うが、乗務員を人身御供の幕引きになっている)
運行経過
位置
km
時刻備考
243↓246↑
名古屋0.016:2519:59
亀山59.911分遅発↓
75.418:07通告券渡されず
高茶屋83.3
六軒89.018:2218:22×臨時交換変更
松坂94.5定時発↑交換予定
鳥羽100.219:0417:28
交換駅六軒へ変更局指令17:53発、快速で全2:31〜2:39。現在はディーゼル化されて快速1:43前後で結んでいる。また付近は1959年紀勢本線全線開通で紀勢本線に組み入れられた(亀山−多気間)。

【参考】 「鉄道ジャーナル」2011年10月号p112〜p113鉄道エッセイ26
鉄道の安全対策とは(3)   参宮線六軒事故   <6ken>

国際連合開発計画(UNDP)鉄道工学専門家  齋藤雅男
 1956年(昭31)10月15日18時22分、参宮線(現在の紀勢本線)六軒駅に進入した鳥羽行き下り快速第243列車(C51+C51形重連牽引、客車9両)が同駅の通過信号機の注意現示を誤認して60km/hの速度で進行、出発信号機の停止現示を認めて非常ブレーキを扱ったものの過走し、安全側線に乗り上げて機関車2両、客車3両が本線側へ脱線転覆した。そこへ対向の上り快速第246列車(C57+C51形重連牽引、客車11両)が走行してきて転覆車両と衝突、死者42人、負傷者92人の大事故となった。  この事故の原因は単なる信号冒進のように思われるが、本来、この列車の行き違いは一つ先の松阪駅の予定であったところ、第243列車の遅延のため急遽、行き違い個所を手前の六軒駅に変更したものであり、六軒駅の通過・出発信号機の現示変更が、列車位置との関係でどの時点で行われたかが問題となった。

 当時、参宮線は腕木式信号機、通票閉塞方式となっており、六軒駅では閉塞扱いと信号機の扱いは連動せず(分岐器の方向とは一敦するが)、別の扱いとなっていて、そのタイミングが問題となったのである。

参宮線六軒駅の列車衝突事故(1956年10月15日)
 そのころ、私は国鉄本社運転局客貨車課の課長補佐を務めていたが、当夜、仕事を終えて自宅に帰りついたとたん電話の呼び出しがあり、「事故調査のため、すぐに現地へ飛んでくれ」ということで、機関車課の山田補佐とともに同夜23時過ぎの東京発大阪湊町行き夜行急行第201列車で現地に向かうこととなった。
 翌早朝、亀山駅で下車、車で六軒駅に到着したが、事故現場は破壊ざれた車両の残骸が散乱し、まるで戦中の爆撃を受けたあとのようなありさまであった。死傷者の多くが修学旅行途中の高校生であったことも、この事故の悲惨ざを強調することとなった。

 事故調査を進めてゆく過程で、駅員や乗務員からの話によると、運転心得にある運転通告券(運転取り扱いの変更について、事前に停車駅等で乗務員に周知させる書面)が発行されておらず、信号現示の確認のみに頼る扱いになっていたこと、重連牽引の前補機側で非常ブレーキを扱ったため、後の本務機を経由して客車編成につながるブレーキ管の減圧が不能となり、そのため、結果としてブレーキ距離が延びてしまつたことも判明した。

 重連牽引のブレーキ問題は戦前から指摘されていたことであり、そのため補機は列車の後部への連結を原則とすることになっていたが、機関車運用の都合などから、戦中の混乱の中でこのような使われ方が常態化していたものである。
(水上機関区のEF12形など2両1組で運用されることの多い電気機関車では、ブレーキ管の応答速度を上げるため、中継弁を設けているものがあった)
(2011/09/06追記:補足引用)

戦時体制の名残の無対策重連運転

 記事によると「重連牽引のブレーキ問題は戦前から指摘されていた」「そのため補機は列車の後部への連結を原則としていた」「水上機関区のEF12形など2両1組で運用される・・・・・・・・機関車では、・・・・・・、中継弁を設けているものがあった」「運転心得にある運転通告券が発行されておらず」と、エラー発生前提の安全策が無視されていて事故に直結しやすい状況だったことが分かる。
 網谷りょういち氏による「(続)事故の鉄道史」では、北陸本線でも重連機関車に中継弁を設置していたと述べていたが、齋藤氏の記事では、戦前から知られていた欠陥で、補機を後ろに連結することで回避していたものを戦時輸送体制で有耶無耶になり重連運転される様になり、戦後もそのままで事故に至っていることが述べられている。
 それなら上越線と北陸線に限らず重連運行が必要な他の急勾配区間でも中継弁を設けた機関車が走っていた可能性が有り、戦時体制のまま重連対策を怠っていた参宮線で減速力不足で防げなかった過走事故で惨事に至ったことになる。
 乗客・乗員の命の掛かった通過制御を上記のような複雑怪奇な手動操作に頼る処に基本的な無理があった様だ。後日、特別の防御設備がない場合には交換時の同時進入は禁止され、一方が駅に停止するまで対向側は場内信号手前で待機することとなった。また進路変更には減速可能な時素が設定された。
 また出発信号と通過信号、場内信号と遠方信号は同一レバーか、少なくとも隣接して2本並んで機械的に相互ロックされていると思っていたが、六軒事故での乗務員の主張では、a.双方がバラバラで動いたのか?b.信号操作遅れによる直前転換なのか?どちらの場合も物理的には有り得たから松坂−六軒間の閉塞扱い完了後上り列車出発をもって、少なくとも六軒駅までの走行時間だけ前の時刻に「同時に信号が扱われたはず」との推定判決になったのだろうが、対向側の下り出発信号と通過信号を操作した証拠として刑事処罰に採用するには根拠が弱すぎる.
 当時のメカ的なインターロック機構としては、信号が進行現示のままでは分岐方向の切替不能というのはあったろうが、裁判での検察側・弁護側の攻防をみる限り出発信号と対向側場内信号に排他的鎖錠機能がなかった可能性もある。他の事故記録によれば下り出発信号が進行のまま上り遠方信号、場内信号に進行現示が出せた可能性がある。(排他機能があれば説得力ある単純論理なのに判決理由に出てこないことと併せ「(続)事故の鉄道史」p192L12〜「信号掛が………場内・遠方信号機に一旦進行信号現示後、停止信号現示の取り扱いを行った」との調査報告書の引用がある)
 他にも調べてみることはまだまだありそうだが、腕木信号の詳細など知らず、昔、駅入口に2本並んでいた記憶はかすかに残っているが遠方信号など気付いたこともない。現在ではリレー論理や電子連動で実現されている(はずである)。

 同時進入禁止規則&転換時素制定と車内警報装置設置及びSLを除く全重連用機関車への中継弁設置(廃止予定のSLは非常汽笛を受けた後側機関士が非常制動を扱う取り扱い徹底)が参宮線六軒事故の苦い置きみやげなのだろう。ATS整備には三河島事故など更に多くの犠牲が必要だった。

【参考文献】鉄道重大事故の歴史、久保田博著、続事故の鉄道史=網谷りょういち、佐々木冨泰
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