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    告別式  ごあいさつ

 本日はご多用中にもかかわらず遠くからも含めて多くの皆様に母○○○○の告別式にご会葬いただきまして大変ありがとうございます。
 生前は皆様よりひとかたならぬご厚情をいただき厚く御礼申し上げます。
 母○○○○は大正6年10月○○日、この○○○町に男兄弟4人の真ん中に生まれ、去る9月○○日午後○○時○○分、○○歳にわずかに足らずに天寿を全うしました。


兵隊墓例:
  軍歴を記す石碑型墓石
 母の生きた時代は、戦争に追われて、男兄弟4人中3人が兵隊に取られ、二人戦死、一人はソヴィエト、サマルカンドで4年の長期にわたる抑留生活での炭坑労働の後に無事復員してきました。
 すぐ上の兄は8月15日終戦直前の8月1日、乗っていた輸送船がフィリピン沖で撃沈され戦死、木札だけが入った白木の箱で帰ってきました。一番下の弟は招集中に病を得て横須賀の海軍病院に収容され、終戦後の10月になってから亡くなりました。横須賀の病院を抜け出して帰宅しその日のうちに姉である母の腕の中で絶命しました。寿命を悟っての帰宅でした。当時、戦死公報があっても生きて復員する兵隊さんも珍しくありませんでしたから、3番目の弟が終戦4年後に復員した後も、毎日、ラジオの尋ね人の時間という番組を聴いていました。尋ね人番組は10年近く続いて終了しましたが何度も「もう無理だよねぇ」とため息を吐きながら聴いていました。

 晩年、記憶が混濁すると息子である私を、60年も昔に看取って亡くなった一番下の弟である叔父と何度も間違えて人に紹介していました。「戦争だけはしちゃいけない」これが最後の戦争経験世代となった母の口癖でした。

 本日、納骨致します○○○町○丁目の善勝寺さんには「兵隊墓」といって、戦死者の軍歴と、戦死状況を刻んだ石碑がまだまだ10基ちかく残っています。母の兄の墓は祖母が建立したそうした兵隊墓です。祖父が早くに亡くなり祖母の女手一つで育て上げた息子たちを有無を言わさず徴兵されて若くして非業の死を迎えた息子を悼んで碑を建てる気持ちはいかばかりか・・・・
今現在を新たな戦前にしないために後生はいかにすべきかが母から遺された宿題だと思います。

 母亡き後も、変わることなく皆様のご指導、ご鞭撻をいただけますようお願い致します。  本日はご会葬本当にありがとうございました。遺族を代表致しましてお礼の挨拶とさせていただきます。

                    2009年10月○○日
                        告別式喪主あいさつ
                            ○○○○



 入院当初から快復の見込みのないことと何段階かの危険な状態が医師から告げられて、4ヶ月近くを経て危篤状態に陥り1週間程で亡くなり、葬儀告別式納骨と続いて一段落となりました。卒寿は過ぎて天寿を全う。生前に故人から聞いたところに拠れば、誕生日に大嵐に見舞われて届け出が1ヶ月近く遅れたというので古い記録を調べると、丁度亡くなった日が大嵐に見舞われて学校が廃校移設になり多くの家が壊れたりの被害になっていたことが判明。どうやら誕生日に亡くなった模様です。
私が引き受けた分は物理的にはたいした作業量ではありませんでしたが、気持ちの負荷は大きかったようで疲労困憊。周辺の雑用が落ち着いたらまた書き始めます。

 遺族の断ちがたい想いを刻んだ兵隊墓は、一人用でカロートという納骨室もなくスペースファクターが悪いため、戦没者遺族が亡くなるのに合わせて寺側の主導で一般形の墓に改葬されてゆき、6年前にはまだ14基あったものが今は7基と、あとわずかになってしまいました。聴くところに拠れば大住職が最後の学徒動員組で戦地から運良く復員されているとのこと。碑文に拠れば終戦の8月を過ぎて11月になってからニューギニアで戦病死というのもありました。5丁目までの狭い町に3つの寺が並立してそれぞれの墓地がありますが、他寺では既に兵隊墓はほぼ淘汰された様で、改葬処理の遅れている浄土宗善勝寺が特に商売上手の経済主義的経営をしているわけではありませんし、小さな町でよくもまあ3寺4神社1教会も成り立って道祖神の祠と平和の礎碑まで良く残っているとは思うのですが、新たな戦前の危惧が顕在化した今、痛恨の歴史の記憶として兵隊墓石碑は残って欲しいものです。しかしながら、かっては農地の一角に先祖代々の墓がありましたが、土葬禁止とともに墓地の集約が図られて、この町で寺院外に残る墓地は2個所3家分で、そこには兵隊墓は既にありません。

 故人の生家玄関には「靖国の家」という紫色のプレートが貼られていました。前途有為を兵隊に取られて若くして戦死したのに、国が祀ってくれないでどうする。他国に勝手に攻め込んで死んだなんて可哀想で到底受け入れられない。せめて国に残る家族を護るため命を捧げたと思いたい。絶対に戦争をしてはダメだ、というのが故人の思い。靖国神社の運営を占拠したアジア侵略正当化、靖国史観でイケイケドンドンの極右勢力とそこに祀られた戦没者遺族の想いはまるで違うのです。

[参考]:惨烈の時代/無言の凱旋 英霊奉迎

2009/10/07 23:55

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