74-衆-予算委員会-3号 昭和49年12月20日

○八木(一)委員 
・・・・・・ (略) ・・・・・・ あと回しにして、もう一つの大事な問題に移りたいと思います。
 三木内閣総理大臣はじめ各大臣にじっくりと聞いていただきたいと思いますが、この前の本会議で金子満広君の質問がありました。そして昨日の予算委員会で村上君の質問がありました。あまりにも一方的に、原因の説明をせず、現象面だけをとらえて、しかも激烈な調子でこれを言ったことについて、総理大臣はじめ各大臣も悪い影響を受けておられるのではないかと思いまして、この背景についてぜひ申し上げておきたいと思うわけであります。
 委員長、これについて不規則発言がありましたら、その退場を命じてください。

(「きのうさんざん言っておいて何だ」と呼ぶ者あり)退場を命ぜられたら、私も退場するよ。いま退場を命じてくれ。

 私は、実は、村上君や金子君がいろいろのことばで非常に誹謗をされました部落解放同盟、朝田善之助氏を委員長とするその部落解放同盟の役員をただいまいたしておりますが、昭和三十二年に、実は部落解放運動の先覚者であった先輩の松本治一郎先生の要請によりまして、当時、共産党員であった国民救援会の難波君や、あるいは野間宏君たちと一緒に中央委員になりました。そして私のみが――三木さん、よく聞いてください。お水を飲んで少し目をさましてください。私のみが、そこでその常任中央委員という役になりました。その中に日本共産党の方がたくさんおられました。そして社会党の者も幾分おりました。もちろん保守系の方もおられました。無党派の方もおられました。差別をなくするために非常に一生懸命にやっている団体として、すばらしい団体だと、その当時思ったわけであります。
 そして、その運動を展開しまして、そのときに、三木さんはよく御存じだろうと思いますが、昭和三十三年に四谷の主婦会館で、部落解放のための、同和対策樹立のためですか、国策樹立のための全国の代表者会議がありました。私はその会議の議長をいたしておりました。自由民主党を代表して、時の幹事長であられました三木さん御自身がおいでになりました。社会党は鈴木茂三郎委員長、共産党は野坂参三議長がおいでになりました。そして全国民的にこの問題の解決のために一生懸命やろうということを、自民党の三木さんも言われました。非常にすばらしい集会でありました。そのことによって世論が高まり、そして昭和三十三年の私と岸さんの質問のやりとりがあり、その方針がきまり、同対審等審議会ができ、同対審答申ができ、それから特別措置法ができ、この問題の解決の方向に向かって、その歩みは非常に鈍いんでございますけれども、前の方向に向かって前進をしているわけであります。
 ところが、この過程の中でいろいろの問題が起こりました。ずばり申しますが、日本共産党の方は、この中で、昭和三十四、五年まではほんとうによくやっておられました。その点については敬意を表します。しかし、三十五、六年ごろから非常な偏向を来たされたわけであります。というのは、この部落解放を望む運動のエネルギーを共産党の方の勢力拡充のために使いたいと、そのような傾向の姿勢を示されたわけであります。そこで、その傾向の中で、部落解放運動の最も特徴とする、いわゆる差別に基づいた行政的な差別をなくするという、行政闘争という大切な項目を、そのとき共産党が指導された自治体闘争というものに一緒にしてしまおうというようなことが具体的な例でありますが、要は、共産党の指導方針に部落解放運動を全部持っていこうという傾向を示されたことに対し、部落の大衆がそれに対していろいろ考えたわけであります。
 共産党の方も理想を持ってやっておられるかもしれない、しかし、われわれはいま就職が困難だ、いま学校に行けない、環境が悪い、衛生状態が悪い、住宅が悪い、小さな商売しかできなくて、それがうまくいかない、この問題を解決する、そのことがわれわれの一番大切な方法である、大事なことであるということで、運動の方針について徹底的な論議が行なわれ、そのいま言った方針の方向に戻ったわけであります。戻って、その論戦の結果、共産党の指導部の方が大部分落選をしました。そして事務局を全部占めておられた共産党の活動家の方が、ほかの方々に入れかわったわけであります。
 この団体は政党支持自由団体であります。自民党だろうと、共産党だろうと、社会党だろうと、公明党だろうと、民社党だろうと、無党派だろうと、部落の解放のために、同和問題の解決のために努力をしていただく方とは一緒にやっていく、そしてそういう方々には積極的に組織内にも入っていただく、そういう運動体であります。でございますから、そのようなことがあっても、共産党の方がその運動を共産党寄りに指導されたことを改められたならば、喜んでその運動体は共産党の方々とも一緒にやるでありましょう。ところが、それをなさらないで、御自分の意見と違った指導部をいろいろの方法で誹謗をなさる。そのことによって、解放運動の中の主導権を取り返そうとなさったわけであります。それがいまの問題の発端であります。
 そして、京都の厚生会館事件という問題で、まず、いまおっしゃっているような、暴力集団朝田一派というようなことをさんざんと、その機関紙を通じて流されました。そしてその後、大阪の矢田教育差別事件というのがあります。このことも内容を詳しく申し上げたいのですが、湯山さんの八鹿の実態をごらんになった質問がありますので、残念ながら要約をいたしますが、そこでも、そのようなことをなさいました。それからまた、「橋のない川第二部」というのを、これは差別映画であると部落の人が一生懸命にとめようとしているのを、無理やりに撮影させるということを、奈良と高知でやってこられたわけであります。
 そして「赤旗」という新聞が非常に影響力がある。これは共産党の人の長年の努力のたまものでありましょう。しかしながら、そのたまものであるものが間違ったことを言う、正しい運動を誹謗する、そのような言論の暴力によって事態を変えようとする、そのようなことが、この十数年間行なわれてきたわけであります。

(「物理的な暴力はどうするんだ」と呼ぶ者あり)黙れ。

○櫻内委員長代理 静粛に願います。

○八木(一)委員 そこで、暴力というものは――三木さん、ちょっと聞いていてください。暴力というものは一般的に悪いことだ、そう言えば、ほかで一生懸命やっている部落解放同盟の指導部が悪い者になって、そして自分たちのほうに主導権が返ってくるだろうということで、暴力、暴力、暴力、暴力と、朝から晩まで言い続けてきているわけであります。その暴力というものは、八鹿では不幸にして負傷者が出ているようでございますけれども、ほかではほとんど出ていないものを暴力と称する。しかもそれは挑発をして誘発をする。たとえば議論をして、私が三木さんのほうにぐっと胸を突きつけるくらいに議論をして、つばがひっかかるくらいに議論をする。三木さんが無礼なやつだということで手で押し戻す。その時点だけとれば、私の胸を三木さんが突っついたという暴力になります。その前に耐えられないような侮べつをする。それに対してのことは考えない。ただ、迫ったときに胸を押し返したものを暴力とする、こういうようなやり方がずっと続いているわけであります。こういうような問題について、そういう背景があるということをぜひともひとつ理解をして、問題についての判断をみんなにしていただかなければならないと思います。

 村上君はきのう、私が不規則発言で皆さんに御指摘をいただいたけれども、あまりにも失礼なことを言いましたから指摘をいたしました。朝田、丸尾と呼び捨てにしているわけであります。人権を尊重する政党が、人をこの中で呼び捨てにする。呼び捨てにすることによって、それを悪者にしようとする意図がある。

(「宮本糾弾と言っておるよ」と呼ぶ者あり)

○櫻内委員長代理 御静粛に願います。

○八木(一)委員 そのようなやり方の中に、そしてあまりにも激烈なあの論議の中に、村上君や金子君がどういう意図をもってこの問題を国会の問題にしたかということは、賢明な皆さま方にはおわかりをいただけると思う。そして、そのような暴力と称するもの、多分に起こっているという村上君たちの言った問題は、大部分がいわゆる共産党の党員の人やその影響を受けた人、主として最近は、その影響を受けた教師集団のある学校において起こっているということ。(「だから暴力はいいのか」と呼ぶ者あり)だからその原因は、それを言っている人たちがそれをつくり上げている形跡がある。(「うそを言ってはいけない」と呼ぶ者あり)そういうことになるわけであります。
 そこで、三木さんに伺いたいわけでありますが……(「一度行ってこいよ。父兄や先生の言うことを聞いてこいよ」「議会でうそを言ってはいけない」と呼ぶ者あり)
 委員長、議場を制してください。

○櫻内委員長代理 私語を禁じます。

○八木(一)委員 もう一回言ったら退場を命じてください。
 そういうことで、そういうふうになっておりますが、三木さんは、たとえば、あらゆる国で民族の違う人がいる、そのときには、独立を主張する、あるいは自治を主張する、そのような世界的な状況になっていることを把握しておられますね。また、資本家階級と労働者階級の中に圧迫がある、収奪がある、それを防ぐために労働基本権が制定をされて、弱い者が団結をして、むちゃくちゃな低賃金でごき使われないように、労働条件を要求する権利がある。ありますね。これは資本主義社会のこと。
 ところが、被差別部落に対する差別は、徳川時代の封建時代から淵源を発している。そしてそれは支配者がつくったものですけれども、支配者だけでとどまっているのではないのです。空気や水のように全国民に広がってしまっているわけです。明治の太政官布告のときに、それに抵抗したのは岡山県の農民であります。農家の人が、自分より下の身分層にあった人が同じになるのはおもしろくないと、襲撃をした。こういう事例からして、あのようなけしからぬ身分的差別の影響は全国民に及んでいるわけであります。そしてこのような、ほんとうにそのことばによって自殺をした青年男女もたくさんありますが、死ぬような苦しみをする人に対して、差別言動が絶えない。それについて法務省は人権擁護のためにどのように動いたか。何万件の差別事件があるのに、解決したのはほんのスズメの涙であります。
 そうなったときに、差別によって抑圧をされる人が、その考え方を正すために懸命な努力をするのはあたりまえの話であります。それがいわゆる集団闘争であります。集団闘争というのは、誤った考え方を正しく直すという意味であります。水平社運動の初期のときには、あまりにも残酷な、あまりにも露骨な差別が多かったから、個人を取り巻いたいわゆるそういう糾弾という歴史がございました。いまはそうではなしに、誤った考え方を正していく。そのようなことを糾弾闘争と称しているわけであります。それを、村上君や、いま不規則発言のあるように、あたかもそのことが暴力そのものであるように「赤旗」で書いて書いて書きまくって、日本国じゅうまいてまいてまき散らして、そしてそのような状況をつくろうとしておるわけであります。
 そのような状態の中で、この八鹿高校の中で、これから湯山さんが言われますけれども、子供たちの切なる希望を、先生たちが退けて退けて退けて、そしてこの紛糾のもとを起こしたのは、その教師集団の中に日本共産党の教師の人がいる、その影響を濃厚に受けた教師の人がいる、そのことが問題の背景であるわけであります。そのことが、共産党の方々が口をすっぱくして、本会議で、この予算委員会で、あのようなオーバーな、あのような過激な、むちゃくちゃな言語で、政府の方々を追及している背景にあるということをぜひ理解を深めていただき、これから同僚の湯山勇さんの実際を見られた質疑に対して、まともにお答えをいただきたいと思うわけであります。

○櫻内委員長代理 湯山勇君より関連質疑の申し出があります。八木君の持ち時間の範囲内でこれを許します。湯山勇君。

○湯山委員 ただいま八木委員から、八鹿の問題あるいは同和対策の問題について御質問がございました。関連してお尋ねをいたしたいと思います。
 まず、直接担当しておられる総務長官にお尋ねいたしますが、部落解放同盟との接触は、総理府においてはかなり密接に行なわれておると思います。これがはたして暴力的な集団なのか、あるいは正しく同和対策、同和行政に協力しておる団体なのか、この点をお伺いいたしたいと思います。――ちょっと待ってください。時間があまりございませんので、答弁の時間が入ると時間が延びますから、ずっと質問を申し上げますから、あとで、そのことを総務長官から最初に答えていただくということにしたいと思います。
 その次に、いま八木委員から御指摘がありましたように、今度の八鹿の問題を、現象面にとらわれて、あるいは物理的な暴力の事件というような形で、暴力がいけないということを皆さん御答弁になりましたけれども、しかし、新しい日本の憲法の柱は、民主主義と同時に人権尊重、これを忘れてはならないと思います。この点からの、つまり差別による人権の侵害という点からの把握に、御答弁を拝聴して、欠けているんじゃないかということを私どもは感じますので、その点をひとつお尋ねいたしたいと思います。
 もちろん私どもも、暴力を肯定するものではありません。八鹿の事件において傷害があった、負傷者が出たということについては、私ども他のどの党よりも心を痛めております。ただ、きのうも質問にありましたように、教育長とか、あるいは校長とか、警察署長とか、PTA会長とか、あるいは幾人かの人に聞きましたけれども、現場を見たという人に会わなかったということは、きのうの質問でも、村上さんが指摘した部分もあります。ただ問題は……(「見ているよ」と呼ぶ者あり)

○櫻内委員長代理 御静粛に願います。

○湯山委員 問題は、そういうことで片づけていいかどうかという点です。そこで、まずお尋ねをいたしたいのは、法務大臣ですが、一体差別を人権問題として法務省が取り上げているかどうかという問題、つまり人権相談所で差別事件として扱った件数、これは昭和四十五年には約一万七千、四十六年には二万、四十七年には三万一千六百八件あります。この中で適切に処理したもの、つまり説示とか援助措置、排除その他の措置、こういう措置をとったものが幾つぐらいあるとお感じになりますか。三万一千六百八件のうちで、一年間に法務省がそのような措置をとった件数は、私が前に尋ねた法務省の御答弁によると、わずかに三十八件です。三万件をこえる件数の中で、三十八件しか処理されていない。説示が二十六件、援助措置が二件、排除措置が一件、その他九件。つまり、千人の人権が侵害された中で、差別された中で、たった一人しか措置されていない。あとの九百九十九人は野放し、やられ損、やったほうはやり得、こういうことになっている。これを一体放置しておっていいかどうか。
 ことに、この相談の中の一番多いのは結婚問題、それから次は職場の問題、近所のつき合い、家庭の中の問題、学校の問題、こういう順序になっております。特に結婚問題では、いま八木委員もおっしゃいましたけれども、私が直接知っておるだけで、自殺した人が一人、自殺未遂が二人、家出が二人、傷害が一人、ノイローゼになった人が一人あります。つまり差別による人権侵害というのは――確かに、こん俸でなぐるのも刃物で刺すのも暴力、いけないことです。これは断じて許せませんけれども、そうではなくて、この差別は刃物よりも深い傷を負わしている。このことを私はしっかりひとつ認識していただきたいというように思います。
 ただ、こうやって人権擁護に訴えていっても、千人の中の九百九十九人が野放しになっている。それでは結局、自分たちの手で差別をなくさなければならないということから糾弾になっていく。その糾弾が怒りを込めた糾弾になってくれば、それは多少の行き過ぎもあるかと思います。しかしこの糾弾を、たとえば、ちょっとこっちへ来てくれと、いやというのを引っぱる、これは逮捕、それから時間がかかれば監禁、それから強いことばで言えば脅迫、こういうことで告訴、告発しています。今度のもそうです。告発なんです。告訴、告発の内容を、あたかも事実のようにきのうもおっしゃっておりました。しかし、これは調べていかなければわからないことで、それをもって事実だというところに、私は問題があると思います。告発があれば警察が調べなければなりません。そうすると、これは人権を侵害された上に、糾弾することによってまたあらためて警察ざたになってくる。二重の被害を受けております。このことをよくおわかりいただきたいのです。これをほっておいていいかどうか。
 昭和四十年の同和対策審議会の答申にはこう書いてあります。「差別がゆるしがたい社会悪であることを明らかにすること。差別に対する法的規制、差別から保護するための必要な立法措置を講じ、司法的に救済する道を拡大すること。」こう答申には示してあります。
  〔櫻内委員長代理退席、委員長着席〕
それ以後九年間、一体何をおやりになりましたか。わずかに千人の中の一人に措置をした。その措置の一番強い勧告、説示、これも強制力はありません。そんなことをおれは聞かぬと言えばそれまで。それでほうっておいて、一体この人たちのそういう糾弾を、あるいは逮捕だ、監禁だ、脅迫だといって告発して、それを事件だといって、一体警察庁は発表していいものですか。私は、今日のこの事態は明らかに政府に責任がある、ほうっておいた政府に大きな責任がある、このことを指摘しておきたいわけであります。新しい憲法の柱はそこなんです。ですから、ただ単に、暴力はいけない、いけないということだけでは済まないんです。私に言わせれば、あなたたちのうちでもし罪のない者は石をもて打てというあのことばを、実は皆さんに申し上げたい。これなくして、ただ単に現象をつかまえて、告発をとらえて、取り締まります、それはどうしますということでは済まされない問題だと思います。
 次に私は、司法的に排除するということについて、気持ちの上では賛成しておりません。こういうことでほんとうの解放がなされるとは思っておりません。やはり問題は、差別をなくしてほんとうに完全解放する道は教育にあると思います。その教育の場でこういうことが起こったことについての理解、認識がもっともっとあっていい。私は、幸い今度は文部大臣が教育者であった方ですから、こういう議論をぜひしたいと思っておりました。そういう機会を三木総理がお与えいただいたことに感謝をしております。こういう文部大臣でないと、こういう議論はできないと思っておりました。そこで、そのためについ失礼なことを申し上げましたが、奥野先生にはまことに申しわけありませんでした。
 つまり、今度の問題は、解放研をつくってもらいたいという生徒の希望を学校側が拒否したことから端を発しております。もし解放研に何らかの欠点があり、そして何らかの背景があるというのであれば、それを断ち切ってやるのが教師の役目じゃないか。もし顧問に就任するという人があれば、これは就任さすのがほんとうなんです。ところが、この顧問就任後、職員会議で、他の顧問になることは本人の意思だけれども、この解放研の顧問になることについては職員会議の許可が要るという差別的な決定をいたしております。これも私は、教師の立場から、同じ教育に携わった者として非常に残念に思っております。
 直接生徒たちが先生に要求したことは何かと申しますと――これは直接その生徒たちから聞きました。解放研に入っている生徒というのは二十一名で、女子が十八名、男子が三名、しかも女子の大部分は一年、二年の生徒です。その生徒たちが先生たちに訴えたかったことは、月に一回同和教育の時間がありますが、その教えてくれる内容というものが、中学で受けた同和教育とここの高校のとはあまりにも違い過ぎる。ここでは、差別の実態、差別の歴史、それを教えるのだということで、部落の歴史やみじめな生活など、そういうことを教えられて、実際に自分たちが暗い気持ちになる、それからそのために、恥ずかしくて頭が上げられなくなる、授業に出るのがいやになる。友達からは、部落出身の生徒に対して、今度はだれだれさんの時間だといってひやかされる。そしてまた先生が、部落差別というものは男女の差別やからだの不自由な人の差別、それと同じようなものだ、こういうことを言われるので、それじゃ先生、同じからだの悪い人でも、部落の者とそうでない人には差別があるじゃありませんかと言うと、そんなことはいま考えなくてよいことだと言って突っぱねて、教えてくれない。この子供たちの意見、希望というもの、この教育を変えてもらいたいという希望がはたして不当なものでしょうか。  私は自分の経験から見て、こういう希望、要求が子供から出てくることは、同和教育に携わっておる教師としては喜んでしかるべきである、そのときこそまことにいい同和教育の機会である、こう思わなければならないのに、この純真な、ほんとうに子供たちの率直な――高校一年生の子供は中学と違う、こういう訴えを聞かなかった。この話し合いに応じなかった。ここに問題があると私は思います。教師というものは、教師と生徒というつながりにおいて教育が成り立っている、その原点を捨てて、子供たちとの話し合いをしないということは一体どういうことなんだろうか。こういう点について、文部省なり教育委員会は指導に欠くるところがあったのじゃないか。一体正しい同和教育を指導しておったかどうか、私は非常に疑問に思っております。また、生徒と話し合ってもらいたいということについては、PTA、父兄も泣いてその一部の教師の集団に訴えています。これも聞かれていない。こういうことも私は理解に苦しむところです。(「先生の意見は」と呼ぶ者あり)
 先生の意見はいま申し上げます。
 直接、二十二日の遺憾な事件についてです。これは当日朝、先生たちは集団で通用門から入って、それから平静にホームルームを行ないました。ここは全く平静に行なわれています。この先生の代表の方四名にお会いをいたしました。そうしたら、こういうことを言っておられます。その日、黒板に、いまから門の近くで何が起こるかよく見ておけということを書いた先生がありました。さすがに先生ですから、私が書きましたということをはっきりおっしゃいました。他の三人の先生に、あなた方はどうですかと言ったら、大かた全部の先生は口頭で同じような意味のことを言った、その三人の先生も同じようにそのことを言った、こう言っておられます。これは直接、書いたその先生方から聞いたことですから間違いございません。
 さて、そうすると、何かが起こるということを、もう朝予知しておったということになります。それは、そういう予知があったのも、集団登校するという状態ですからそうかもしれません。あるいは十八日から集団で登校、下校し、それから宿舎は全部かん詰めになって、泊まり込んでやっております。城崎のほうへ泊り込んでやっておりました。あぶないということをもし感じておったのだとすれば、私が理解に苦しむ点は、通用門から入った先生、その門の付近には若干の共闘の人がおりました。あえてその正門のほうをしかもスクラムを組んで出ていく。どうしてそういうことをしたのだろう。学校におったらなぜあぶないのだろう。学校におったら押しかけてくる、あるいは危害を加えるということになれば、これはほうっておけません。ところが、その正門を隊伍を組んで、スクラムを組んでその先生たちの集団が出ていく。その集団に対して、それは福田大臣が本会議で御答弁になったように、十数名の人たちが学校へ帰ってくれ、授業してくれということを訴えた。これは大臣が本会議で御答弁になりました。それを、帰らないで、その人たちを排除しながら、引っぱりながら、そして三百メートルばかり行進していっている。それだけ用心深い、集団で登校、下校し、かん詰めになる先生たちが、どうして一体その方向へそんな時間に出ていったのだろう。また、前のほうに何百かの集団が見えます。見えたら、せっかくこれだけの集団、デモを組んでおるのですから、とまるなり引き返すなり、いやなときには、うしろがあいておるから逃げることもできたはずです。にもかかわらず、それへぶつかってすわり込んだということは、一体どういうことなんだろう。暴力をなくするためには、危険を排除するためには、この先生たちは、女の子は一人歩きしちゃいかぬ、夜は早くうちへ帰れ、山へ登るのは一人で登っちゃいかぬ、あるいは盛り場へ行っちゃいかぬと、そういう事故の起こらない教育を事前にしておる先生が、どうして予知できておって、しかも、それをとめておる父兄、あるいはそういう一部の人たち、そういうのがあるのに、なぜ一体そこへ行ったのか、私はどうしてもここの理解ができません。こういうことは、先生として、私は同僚のような気持ちで残念に思うし、私ならばこういうことはしない。文部大臣がもしここの先生だったら、どういう態度をおとりになりますか。これを真剣に考えてもらいたい。

 こういう事実を見てまいりますと、これは私は、八木委員が指摘されたように、周囲の人たちから、あれは計画的じゃなかったのか、挑発があったのじゃないかと指摘されてもやむを得ないという点が多々あるということを、実際に見聞きしてまいりました。しかしそのことで私は、この先生たちをとがめる気持ちは毛頭ありません。そうじゃなくて、いまのようなことを考えてみていくと、この同対審の答申には、「同和教育に関しては遺憾ながら国として基本的指導方針の明確さに欠けるところがある。」こう指摘してあります。国として同和教育に関しての明確な指導方針というものがいまだに欠けている。現象面じゃなくてその根本は、文部大臣は、敵は私の中にあるとおっしゃいましたが、暴力がいいかいかぬかの問題じゃなくて、政府自体この問題に反省する必要があるのじゃないか。そしてまた、法務大臣に申し上げましたように、この日本憲法の大きな重大な柱の人間尊重がこうしてそこなわれていっているのを、いまだかつて何の手をも打たないで、ただ来年は十倍くらい予算がふえる。一〇〇〇%以上の予算を要求しておられますけれども、それじゃ済まない。それをこうほうっておった政府の責任はきわめて重大であるといわなければなりません。
 私はこの問題に関連して、特にいまの点、もしこういうふうにしておったら、この不祥な事故は避けられたんじゃないかということを、事実を一番よく知っておられる公安委員長から御答弁いただきたいのと、残余の問題を文部大臣にお答えいただきたいのと、そして私は、これこそ、災いを転じて福となすという勇断を持った、しかも強力な対策をこの際打ち出す責任が政府にあると思いますので、最後に、三木総理から締めくくりの御答弁をいただきたいと思います。

○荒舩委員長 湯山君に申し上げます。  時間がもう超過しておりますから、最後に総理大臣の答弁をして、終わりといたします。

○三木内閣総理大臣 八木さんや湯山さんから、同和問題の背景の複雑さについていろいろ御説明を承りました。認識を一そう深めた次第でございます。同和問題は基本的人権に関連する問題でございますので、政府は、同和対策事業特別措置法、それに基づく長期計画によって、今後一そう同和問題の解決に努力をいたす所存でございます。お答えをいたします。

○田中(武)委員 ちょっと、議事進行でお願いします。
 いま湯山委員あるいは八木委員が質問して、具体的に各担当大臣にお願いした件につきましては、文書をもって後刻御回答をいただきたいと思いますが、お願いします。

※→八鹿高校事件関連国会質問一覧 1974/11/22〜1975/03/31